意地悪な彼の溺愛パラドックス
ふたりが二、三言葉を交わした後に私の肩を抱いたのがどちらかはわからない。
電車の音が私を呼んでいるようにも思えたけれど、乗り込んだ先の弾力はそれよりも上質で不安に揺られる。
景色は見えず真っ暗で、ときどき感じるのはまぶしい光。
身体は深く眠っていて金縛りのように言うことを聞かないのに、車内で寄りかかる胸が妙に安心したことと、何度も声をかけてくれたことは覚えている。
警報のサイレンが鳴り響く脳内で、本当は意中の彼とこうなることを望んでいた自分に幻滅した。
「しっかり歩いてくれ」
睡魔に取りつかれた曖昧な狭間で、私のたどたどしい足取りに舌打ちをした男はヒョイと背中に腕をくぐらせ抱きかかえる。
フワリと浮いた感覚は気持ちよくて、首に回した腕に力を入れて胸にすり寄ると、優しい心音とため息がアルファ波を生み出した。
それから視界が戻り、最初に見えたのは白い煙の渦。
空を舞って分散したところへ、また新しい渦が乱気流のように襲ってくる光景をじっと見つめた。
モゾモゾと起き上がり、ここはどこでそこにいるのは誰なのかと寝ぼけ眼をこする。
「あ、イヤ?」
気配に振り向いた彼は、私のいるところからほんの少しだけ離れたところにドカッと座っていて、そばにあるダークブラウンのローテーブルに肘をつき二本の指に挟んでいたそれを見せた。
彼の手が灰皿まで伸びる前に、私は首を横に振る。
メンソールと葉の香りが立ち込める空間は中毒性が高い。
ふかふかの座面が心地いいローソファの上にいた私は左右を見渡し、六帖ほどのシンプルモダンな一室に柏木遼と私がいることを目視した。
「なぜ?」
「保護してやったんだよ」
「ですよね」
「感謝しろ」
「ありがとうございます」
いつもの調子だ。
彼も、私も。
ホッとしたのもつかの間、罪悪感が私を襲う。
実家がどうたらと言っていたから、奥さんは留守なのだろう。
かといってその隙に上がり込むなんて道理に反している。
いっそのこと道端に放置してくれた方がよかったのに、そうしなかったのは上司としての責任か。
彼の善意を善意として受け取れるうちに、私は帰りたかった。
「タクシー拾って帰ります」
「うむ。ぜひとも、そうしてくれ」
相変わらずふざけた調子の彼に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げると、パールとビューがあしらわれたバンスクリップでエレガントにまとめていた髪がつる。
「いて、いててて」
「なにごと?」
「髪が絡まったみたいで」
道中揺られ振られて、あられもない髪型なのはなんとなく想像がついた。
私は涙目になりながら後頭部を押さえ手探りする。
見かねた彼が私の座る隣に腰を下ろすと、ソファが沈み煙草の香りに包まれて、ドキッとした心臓が大きな波を打った。
「じっとしてろ」
そう言って丁寧に解きほぐしていく指先は、いつも事務所で触れる指先と同じ。
ふたりの距離だって変わらないはず。
それなのに、もう同じではいられなかった。
耐え難い苦痛に顔をゆがめ、ギュッと目を閉じる。
はずされたバンスクリップをテーブルに置く音がカツンと響き、いつもするように私を堪能するのかと思い構えたのだが、そっと髪をすきながら心配そうに伺ってきた。
「どうしたの。いつもはこんなに飲まないのに」
「それは……」
失恋、とは言えない。
私が口ごもっている間に、スルスルと何度もしなやかに彼の指先が髪をすき、そのたびに心も見透かされてしまうような気がした。
「悩みがあるんだって?」
彼は手を止めて私の顔を覗き込む。
泣きついた先輩に聞いたのかもしれない。
多分、仕事のことで悩んでいると思っているのだろう。
私を直視する彼の強い視線と真面目な雰囲気は凛々しくて、つい食い入るように見とれてしまった。
ほてる頬を不意に彼の手のひらが覆い、ピクリと肩を震わせる。
瞬きをすると、まつげが彼の指先に触れた。
時がゆったりと流れるようで、このまま見つめ合っていたいと願う。
しかし彼は一瞬切なそうに目を細め、私の願いをアッサリと断ち切る。
「まぁ、今日のところはもう帰りなさい。俺でよかったら今度聞くからさ」
言いながら頬を包んでいた手のひらが髪を掬い上げ、パラパラと宙を流した。
「バカヨが元気じゃないと、触る楽しみが半減する」
彼は微笑んで、私の頭にポンと手をのせる。
その悪戯に溺れてしまいそうだ。
いや、もうずっと前から溺れていた。
ただバカな私は、ゲームオーバーだと気づかなかっただけ。
電車の音が私を呼んでいるようにも思えたけれど、乗り込んだ先の弾力はそれよりも上質で不安に揺られる。
景色は見えず真っ暗で、ときどき感じるのはまぶしい光。
身体は深く眠っていて金縛りのように言うことを聞かないのに、車内で寄りかかる胸が妙に安心したことと、何度も声をかけてくれたことは覚えている。
警報のサイレンが鳴り響く脳内で、本当は意中の彼とこうなることを望んでいた自分に幻滅した。
「しっかり歩いてくれ」
睡魔に取りつかれた曖昧な狭間で、私のたどたどしい足取りに舌打ちをした男はヒョイと背中に腕をくぐらせ抱きかかえる。
フワリと浮いた感覚は気持ちよくて、首に回した腕に力を入れて胸にすり寄ると、優しい心音とため息がアルファ波を生み出した。
それから視界が戻り、最初に見えたのは白い煙の渦。
空を舞って分散したところへ、また新しい渦が乱気流のように襲ってくる光景をじっと見つめた。
モゾモゾと起き上がり、ここはどこでそこにいるのは誰なのかと寝ぼけ眼をこする。
「あ、イヤ?」
気配に振り向いた彼は、私のいるところからほんの少しだけ離れたところにドカッと座っていて、そばにあるダークブラウンのローテーブルに肘をつき二本の指に挟んでいたそれを見せた。
彼の手が灰皿まで伸びる前に、私は首を横に振る。
メンソールと葉の香りが立ち込める空間は中毒性が高い。
ふかふかの座面が心地いいローソファの上にいた私は左右を見渡し、六帖ほどのシンプルモダンな一室に柏木遼と私がいることを目視した。
「なぜ?」
「保護してやったんだよ」
「ですよね」
「感謝しろ」
「ありがとうございます」
いつもの調子だ。
彼も、私も。
ホッとしたのもつかの間、罪悪感が私を襲う。
実家がどうたらと言っていたから、奥さんは留守なのだろう。
かといってその隙に上がり込むなんて道理に反している。
いっそのこと道端に放置してくれた方がよかったのに、そうしなかったのは上司としての責任か。
彼の善意を善意として受け取れるうちに、私は帰りたかった。
「タクシー拾って帰ります」
「うむ。ぜひとも、そうしてくれ」
相変わらずふざけた調子の彼に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げると、パールとビューがあしらわれたバンスクリップでエレガントにまとめていた髪がつる。
「いて、いててて」
「なにごと?」
「髪が絡まったみたいで」
道中揺られ振られて、あられもない髪型なのはなんとなく想像がついた。
私は涙目になりながら後頭部を押さえ手探りする。
見かねた彼が私の座る隣に腰を下ろすと、ソファが沈み煙草の香りに包まれて、ドキッとした心臓が大きな波を打った。
「じっとしてろ」
そう言って丁寧に解きほぐしていく指先は、いつも事務所で触れる指先と同じ。
ふたりの距離だって変わらないはず。
それなのに、もう同じではいられなかった。
耐え難い苦痛に顔をゆがめ、ギュッと目を閉じる。
はずされたバンスクリップをテーブルに置く音がカツンと響き、いつもするように私を堪能するのかと思い構えたのだが、そっと髪をすきながら心配そうに伺ってきた。
「どうしたの。いつもはこんなに飲まないのに」
「それは……」
失恋、とは言えない。
私が口ごもっている間に、スルスルと何度もしなやかに彼の指先が髪をすき、そのたびに心も見透かされてしまうような気がした。
「悩みがあるんだって?」
彼は手を止めて私の顔を覗き込む。
泣きついた先輩に聞いたのかもしれない。
多分、仕事のことで悩んでいると思っているのだろう。
私を直視する彼の強い視線と真面目な雰囲気は凛々しくて、つい食い入るように見とれてしまった。
ほてる頬を不意に彼の手のひらが覆い、ピクリと肩を震わせる。
瞬きをすると、まつげが彼の指先に触れた。
時がゆったりと流れるようで、このまま見つめ合っていたいと願う。
しかし彼は一瞬切なそうに目を細め、私の願いをアッサリと断ち切る。
「まぁ、今日のところはもう帰りなさい。俺でよかったら今度聞くからさ」
言いながら頬を包んでいた手のひらが髪を掬い上げ、パラパラと宙を流した。
「バカヨが元気じゃないと、触る楽しみが半減する」
彼は微笑んで、私の頭にポンと手をのせる。
その悪戯に溺れてしまいそうだ。
いや、もうずっと前から溺れていた。
ただバカな私は、ゲームオーバーだと気づかなかっただけ。