意地悪な彼の溺愛パラドックス
しかし息を止めた二秒後には、背後から大和くんの単調な声が聞こえて胸をなでおろす。
「かよつん時間だよ。上がらないの?」
「大和くん……」
はたして大和くんってこんなに近い距離でスキンシップする人だったろうかと戸惑ううちにも、普段と変わらないニコニコした人懐こい笑顔で「遼に叩かれたの?」と、その部分を包むように触れる手のひらに妙なドキドキが私を襲う。
大和くんに恋愛の意識なんてしないけれど一応嫌いではない異性だし、ただでさえ傷心のところを突然くすぐられたら、頬を染めるくらいは生理現象だ。
「なにしてんの? 大和」
気配に気づいた彼はすぐにこちらを向き、私のこんな状況にからかいを入れるかと思いきや、無表情で大和くんを見た。
「なにも? かよつんを迎えに来ただけだよ」
「そうは見えないけどな?」
「遼がいじめるなら、俺は優しくしてあげる責任があると思うんだよね」
「ないだろ」
彼の冷たい視線は私をなでる手に、静かな声色は心なしか苛立っているような、そんな感じを受ける。
これはヤキモチかと私は胸を熱くするが、矛先はどうせ髪だろう。
もう触らせないと決めたばかりだけれど、彼以外に触られたくはない。
私はひとつに縛った髪を揺らし振り向くと、大和くんを見上げて言った。
「さっきユリちゃんから休むって連絡きたの! 私代わりに入るから、大和くんは上がっていいよ」
「え、サボリ?」
「うーん。スッゴク元気そうな風邪、かな」
否定も肯定もせずに肩をすくめて苦笑いすると、大和くんの手がその肩にのり、無言の労いのようにトントンと拍子を叩く。
私は胸の高さでガッツポーズをして、ニッコリと笑って見せた。
「大丈夫! 私、用事とかないし仕事好きだし。それに……」
「かよつん、彼氏つくりな?」
大和くんが私の言葉を遮り、憂慮の面持ちで言うものだから思わず意気消沈。
そんな私にすかさず「それとも」と怪しく微笑み、距離を詰めた大和くんの圧に押されて一歩よろけて下がると、流ちょうに顎を掬い上げられる。
「初恋実らせちゃう?」
「やっ、大和くん!」
睨みつけ怒る私を前にしてもクスクスと笑いながら、なだめるようにまた頭をなでてくるので、公共の場で血迷った大和くんに眉を寄せた。
「じゃ、お先に。かよつんお疲れ」
「お、お疲れ様」
そのままスタスタと事務所に向かう背中を見つめて、私は首を傾げる。
兎にも角にも、すぐうしろからの彼の強い視線が耐え難い。
今度こそからかわれると思い、私は振り向いて先に吠えた。
「なっ、なんですか? 彼氏いないのがそんなにおかしいですか!?」
「いや。……かわいそうだなって」
「そんなしみじみと言わないでください!」
わずかな望みすらなくなったばかりの私には酷すぎる。
下唇を噛んでまぶたを伏せ、そっとため息をついた。
「では、私は仕事に戻りますので」
「何時まで?」
「十八時ですがなにか?」
仕事が恋人だと言えば満足かとおもしろくない顔をして、奴を横目に見た次の瞬間、ドクンッという衝撃とともに心臓が痛いほど高鳴った。
「がんばって」
そう微笑んだ彼の表情は、優しくてやわらかい。
まるでアイリちゃんに向ける笑顔のようで、私の胸を切なさが貫く。
ろくな返事もできずに立ち去る私を不審に思ったのか、彼の視線がいつまでも私を捉えていたことに、気づかないふりをした。
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