意地悪な彼の溺愛パラドックス
お客様の足も遠のいた十八時すぎ、私はスタッフに引き継ぎをして事務所を出る。
ボサボサになった髪はホコリっぽいし、汗ばんだ身体は気持ちのいいものではなく、休む間もなく走り回りクタクタになった両足は鉛のように重かった。
夕飯は面倒だからコンビニにして、帰ったらまずはお風呂。浮腫んだ足のマッサージをしよう。
そんなプランを考えながら歩いていると、ショッピングセンター内ですれ違う何組もの家族連れを見て、嫌でも彼を思い出す。
今頃、楽しく夕飯でも食べているのだろうか。
私はひとり、キラキラとまばゆい光を放つ専門店街を通りすぎ、薄暗い従業員用の通路へ入る。
しばらく歩くと警備室があり、そこで簡単なチェックを受けてようやく勤務は終了。
真っ暗な外へ出ると、凍てつくような外気が一気に身体を冷やし、ブルリと震え上がる。
徒歩十五分のアパートまでの辛抱だと、気合いを入れて右足を踏み出したとき、星ひとつない真っ暗な夜空から流れ星が落ちてきた。
「かよ」
私はたしかに、その声にパチンと弾ける星を見た気がしたのだ。
「お疲れ」
名前を呼ばれたのは聞き間違いだろうか。
彼のことは夜に紛れてよく見えなかった。
代わりに私の視界に焼きついたのは、口もとで熱を上げる小さな赤い火と、それが弱まった後の白い煙。
「どう、したんですか?」
絞り出した声は驚きを隠しきれず、彼はフッと笑って言った。
「待ってた」
うれしくない、全然うれしくない。
私はにやけた口を金魚のようにパクパクさせて、なにをどう問うべきか意識と無意識に混乱する。
「腹ペコのバカヨに夕飯おごってやろうかと思って」
フーッと長く煙を吐き出しながら煙草の火を消し、静止していた私に彼は近づいてきた。
そして顔を覗き込むのだが、暗くてよく見えないせいか距離が近くて、私は息を止める。
「大丈夫か? 疲れてる?」
「えっと、私コンビニの梅おにぎりが食べたい気分なので」
「なんで? いつも飛びついてくるくせに」
「それはそうなんですけど、そうもいかないというか。梅おにぎりが酸っぱさを増して陳列棚で待っているので、早く行かないと……」
「はぁ? バカなの?」
ゴニョゴニョと意味不明な言い訳を探す私を一瞥した彼は、聞く耳を持たずもう面倒くさいと言わんばかりに強引に腕を取った。
「ちょっ、柏木さん!?」
まさか家族のお食事会にお邪魔するとかか?
それすごく嫌なんですけれども。
けれども、彼は私を引く手の力を緩めようとはしない。
だから振り払って蹴りでも入れて、罵声を浴びせて逃げることも考えた。
でも私をつかんだ彼の手は大きくて力強くて手錠のようで、鍵を持たない私には、引きちぎることができなかったのだ。
そうして再びショッピングセンター内の光があふれる空間に立ち入ると、あまりにまぶしくて目がくらむ。
瞬きながら前を見ると、光に透かされたグレーの髪がサラサラと振り子のように揺れて、このまま無心についていけたらどれだけ幸せだろうと、まるで誘導技法の催眠術にかけられる。
そのせいか、通路脇の綺麗に磨かれたショーウィンドーや、ミラーに映る彼と私は恋人同士に見えた。
制服を脱いだ私たちが着いたのは、休憩時間にランチをともにするいつものファミリーレストランを通りすぎた、レストラン街の奥の少し値が張るお食事処。
しかも通された席にふたりきりなものだから、罪悪感は半端ではない。
「柏木さんっ。投資したって触らせてあげませんよ?」
私は首をすくめて小さくなり、向かいに座って優雅にメニュー表を眺める彼に釘を刺す。
一瞬目を丸くした彼は、左下に視線を下ろしてから頬杖をつき「心外だ」と、いじけたように唇を尖らせた。
「バカヨがこの間から変っていうか、元気ないから。心配してんの」
「え?」
「ヘラヘラしてるけど、本当は無理してるだろ」
無理をしているのは仕事ではなく、あなたのせいだ。
「なんで私なんか。放っといてくださいよ」
「それはお前が、負け嫌いの努力家だから」
「……え」