意地悪な彼の溺愛パラドックス
身体中の水分を流し終えた翌朝は、まぶたが重い。
つまり寝ても覚めてもリアルワールドなわけで、自然の摂理に抗わずにこのブサイクな顔を受け入れるしかなかった。
こういう日は仕事なんてしたくないのだが、店長がサボるわけにはいかないので、元気に朝一出勤している。
十時の開店時間まではあと一時間。
私はコンパクトミラーを机に置き、シフト表作りに取りかかる。
右手に持ったボールペンをカリカリと動かしながら、こんな顔を映さねばならない鏡を憐れんだ。
左手では持参した保冷材を片方のまぶたにあて、時間をおいてはカップ自販機で買ったホットカフェオレをあてる。
幸い視力は鳥並によいので支障はない。
一晩大泣きして、スッキリした自分は前向きなのだと思う。
とにかく今は、ほかのスタッフが出勤してくるまでに腫れが引くことを願った。
二十分ほどして事務所のドアがトントンと叩かれ、お花畑から帰国したように明るい声が朝の挨拶を歌う。
「店長、昨日は風邪ひいてすみませんでしたぁ」
「私が入れたからいいけど、急な欠勤は控えてね」
「はーい」
反省の色が見えない彼女に、私はあきれたように眉を上げた。
「デートだったの?」
「んー、まだそこまでじゃないんですけど、仲よくしといた方がいいかなって。彼氏候補です」
「若いっていいね」
ここまで隠さずに言われると怒る気も失せてきて、何人も候補者がいそうなユリちゃんがうらやましくもなった。
一度でいいから、おっとりした小悪魔女子になってみたいものだ。
目もとの腫れがだいたい引いたことを鏡でたしかめて、私は冷めたカフェオレを口に含む。
「店長もまだ大丈夫ですよぉ。柏木マネージャーならイケるかも! 彼女いないって言ってたし」
ほのかに苦みの出たそれを飲み込む前に、タイムリーな話題を振られ思わずブッと吹き出した。
急いでティッシュペーパーを二、三枚つかみ取り口を拭う。
それ、彼女はいないけれど奥さんはいるよっていうギミック。
「なんでも負け嫌いの努力家が好みらしいですよ。ユリは店長みたいにタフじゃないからあきらめました」
「ゲホッ! くだらないこと言ってないで、さっさと仕事の準備しなさい」
「はーい」
いくらうれしい言葉や好きだと言われても、不倫相手はナシでしょう。
私の柏木熱も、このカフェオレみたいに早く冷め切ってなくなればいいと、ガブガブと飲み干した。
やがて十時を回ったところで、私は事務所にこもるためユリちゃんに店内を任せる。
平日は常連のお客様がメダルゲーム目当てに訪れるくらいなので、手が空いて掃除日和。
「ユリちゃん、遊具の掃除しておいてね」
「えーっ」
口をへの字に曲げた彼女に、私はニヤリと口角を上げた。
「嫌ならメダル掃除でもいいよ? 私が午後やる予定だったから助かるし……」
「遊具やります!」
「よろしくね」
月曜日の午前中は休日のしわ寄せに追われる。
メダル取り出し口は掃除すれば指先がボロボロになるほど真っ黒だし、子供向けのスペースは特に小まめに綺麗にしておかないと不衛生。
安心して楽しく遊んでもらいたいから、スタッフには優先的にすべき場所からバンバン掃除や点検をしてもらう。
もちろん私も行うが、その前に集計作業。
開店前にゲーム機から回収した売上金を集計機にかけ、カウントされている数値と売上金の相違はないかを照会する。
最終的に過不足ゼロでの本部送信が鉄則だ。
そんな作業が終わる頃には、ちょうど出勤時間の大和くんが、ユリちゃんに小言を言いながら事務所へ入ってきた。
「どうしたの?」
私は口を尖らせるふたりを見て首を傾げる。
「昨日のサボリ。かよつんの代わりに叱っといた」
「もういいじゃないですか。ユリは反省して、ちゃんと掃除してたんですよ?」
「ちゃんと掃除すんのは仕事だろ」
頬を膨らませたユリちゃんを見て「大和くんありがと」と私は静かに遮り、彼女に向き合う。
「ユリちゃんの仕事に対する姿勢は自分次第だけど、昨日の突然の変更で、ユリちゃんを待っていたみんなに迷惑かけたのは事実だね」
「だから、ごめんなさいって言ってるじゃ……」
「だからユリちゃん、メダル掃除までしてくれたんでしょ? 私がやるはずの仕事だったのに、ありがとう」
朝はピンクのグラデーションだった綺麗なネイルも、傷のなかった指先も、今は真っ黒で絆創膏が貼ってある。
私が頼んだ遊具の掃除だけでは、こんなふうにならないもの。
「真面目にがんばっているところも、私は見ているつもりだよ」
頬を染めたユリちゃんは「暇だっただけです」と両手を腰に隠した。
あたり前のことだろうけれど、こうして自分から仕事をしてくれるようになったのは、やっぱりうれしく思う。
彼女も私も少しだけ成長できた気がして、頬を緩めた。
「かよつん。……遼に似てきたね」
大和くんは微笑ましいものでも見るかのように、目尻を下げてコソッと言った。
それは称賛だったのだが、今、彼の話がタブーな私の返す笑顔はぎこちなかったかもしれない。
こんなとききっと彼なら、すぐに気づいてしまうのだろう。
枯れたはずの涙をこらえて、そう思った。