意地悪な彼の溺愛パラドックス

十七時前の事務所内は賑やかだった。
柏木マネージャーとの打ち合わせも終わり、私は間もなく退勤時間。
入れ違いで大和くんとユリちゃんが出勤していて、彼を引き止めての立ち話に花が咲いていた。
けれど私は遠目に眺めているだけ。
寝不足でぼうっとしているせいもあるが、物足りなさに気抜けしているのが本当のところ。
私はこんなふうになった今でも、彼に触れてほしいと思っているのだ。
そんな葛藤を知らない彼は脱いでいた上着を羽織り、身なりを整えて帰る気は満々。
世間話に付き合う程度で、ときおり笑みを見せては軽い相づちを打っていた。
「聞いてください。ユリ、彼氏できましたぁ!」
事務所の蛍光灯をスポットライトに見立て、万歳をして発表するユリちゃんに、そんな気分ではないが一応パチパチと拍手を送ってみる。
仕事を休んでまで、デートをした甲斐はあったということか。
ユリちゃんはスマートフォンに表示したツーショット写真を見せつけながら、片手を腰にあて胸を張った。
「柏木マネージャーには振られちゃいましたけど、なかなかのイケメンです」
「やっぱ狙ってたんだ? まぁ、ユリちゃんは遼のタイプじゃないよな」
大和くんがすかさずツッコミを入れると、ユリちゃんは唇を尖らせた。
プクッとしたチェリーピンクのグロスがかわいい。
目もとのクマといい肌の地割れといい、悲惨な状態の私にとっては見習いたいくらいの女子力だ。
ユリちゃんは柏木遼をチラッと見る。
「ユリとは正反対の人がお好みらしくて。すっごく残念です」
「そんなに遼がよかったの?」
「だってカッコイイし知的だし、絶対モテそうだもん」
「まぁな」
褒められた本人は当然とばかりに大きくうなずく。
私はムッとしつつも自分も奴の虜であることを悔やみ、お気楽な彼らを視界に入れないよう足もとを見た。
「そこでユリは思ったんですけど、店長なんてピッタリかも。柏木マネージャー、どうですか?」
眼球を落としそうなくらいこじ開けたまぶたをバチバチと瞬き、こむら返りした顔面から冷や汗を流す。
なんて空気の読めない子。
いや、読まれても困るな。と、汚れたスニーカーを見つめて知らんふりをする。
すると、フムフムと感心したように柏木遼が言った。
「……ユトリ世代の発想力はおもしろいな」
「それ、世代は関係ないですよぉ!」
私なんて会話にすら入れていないのに、よく冷静に話せるものだ。
このまま無関心を装ってやり過ごそうとしていたが、そんな私の肩を突然大和くんがガッと抱き寄せた。
「お似合いだよ! かよつんも遼のこと嫌いじゃないでしょ?」
「ちょっと、大和くん!?」
押し返す私の肩を離そうとしない大和くんは、彼を挑発するかのようにニヤリと笑って見据えている。
「遼、もたついてると俺が略奪しちゃうぞ?」
「からかわないで!」
冗談がすぎると眉をひそめるが、この思いは届かない。
他人事は楽しいのだろう。
「いいじゃないですか。おふたりとも、付き合ってみたらどうですか!?」
「ユリちゃんまで、やめてよ」
ふたりして焚きつけてきて、もう苛立ちが爆発しそうだった。
「ものは試しにさ……」
「やめてってば!」
まだ口を開く大和くんに、とうとう堪忍袋の緒が切れた私は声を荒げる。
彼は適当にあしらっていたというのに。
私はひとり、なにをムキになってしまったのだろう。
頭に血が上り、赤く染まった頬で思わず叫んだ私を凝視する彼らは、完全に言葉を失っている。
「いや、あの。ごめんなさ……っ」
「まったく、お前らは小学生か? さっさと仕事に入れ」
シンとした室内で、まごつく私に助け船を出したのは彼だった。
大和くんとユリちゃんを店内に追いやった後、とても視線など合わせられずにうつむき、うろたえる私に向かって彼はため息をつく。
「気遣いすぎ。ごめんな」
「えっ?」
予期せぬ謝罪に顔を上げると、彼の人差し指が私の眉間を指差してきて、ビクリとした私は身体を硬直させた。
「今日、ずっとシワ寄ってる」
ハッと息をのんだ私に曇った瞳で口角を上げる彼こそ、気を遣って無理をしているように見える。
それなのに彼は肩をすくめて、また「ごめん」とつぶやいた。
「壊れるにしても、せめてあと一ヵ月待てばよかった」
「一ヵ月?」
そう言い残してなにも答えずに去る彼は、私に触れもしないし、振り向きもしない。
自分から彼を拒否したのに、それがすごく切ないなんて自業自得で笑えてくる。
バタンと閉められたドアが鉄の扉のように重く見えて、かけられた鏡に映る私は、なんとも悲痛な顔だった。
< 38 / 68 >

この作品をシェア

pagetop