私、古書店の雇われ主人です。
寿々目食堂は美術館からほど近く、その案内を頼りに迷わず着くことができた。

「ここのようだね」

「写真にあったとおり、いかにも和食屋さんって感じですね」

引き戸には暖簾がかかっていて、表には小さいながら玉砂利が敷かれて美しい竹が植わっている。

(桧垣先生と奥様も、二人でここを訪れたのかな?)

そんなことを思いながら店内へ入ると、さっそく食券の券売機が目に入った。もちろん、羽鳥さんの目にも留まったらしい。

「(これかな?)」
「(そうなりますかね?)」

互いに目だけで了解し合う。

「いらっしゃいませっ。食券を買っていただいてから注文をお願いいたしまっす」

厨房から声をかけてきたのは、爽やかな笑顔の板さん風の男性だった。店はさっき開いたばかりで、お客は羽鳥さんと私だけ。混み合う前の時間をわざわざ狙って来たのだから。

券売機のメニューボタンを見て、私たちは「おや?」と首を傾げた。

「美味しい紅茶、ですって」
「ホットとアイスがあるんだね」

かつ丼やアジフライ定食などの定番メニューが並ぶ中、ぽつんと離れたはじっこに美味しい紅茶のボタンはあった。

無料で飲み放題の麦茶があるようだし、紅茶だなんて定食屋さんにはおよそ不似合いみたいだけど――。

「これはいくしかないよね」
「ですね」

羽鳥さんはかつ丼で、私は親子丼を、そして二人とも「美味しい紅茶」の食券をもれなく買う。

席はよりどりみどりだったけど、選んだのはカウンター席。お店の人に話しかけやすいように、あの古い食券の話を聞くためだった。

「かつ丼、親子丼、美味しい紅茶の冷たいのがお二つですね」

厨房の男性はハキハキと言うと、厨房のさらに奥へ声をかけた。

「美味しい紅茶~、冷たいのお二ついただきました~」

和食屋さんでわざわざ紅茶。しかも「美味しい」とか強調しているし。いったいどんな紅茶が出てくるのだろう? 

興味津々で厨房を観察していると、厨房の奥から女性が出てきた。清潔そうな白の作業着に三角巾という、若いけれど食堂のおかみさん風のきれいな人。そして、彼女が丁寧に淹れてくれた紅茶は驚きの美味しさだった。

「すごい、とっても美味しいですっ」
「ありがとうございます。恐れ入ります」

嬉しそうに微笑む女性の可愛らしいこと。それにしても、ずいぶん手間をかけた本格的な淹れ方だと思って見ていたら、こんなに美味しいとは。羽鳥さんも同じ感想のようだった。

「しかし、どうしてまた定食屋さんで紅茶を?」

「家内は紅茶の勉強をしていまして。先代からのウチの伝統みたいなものなんです」

厨房の二人はご夫婦で、お店の二代目なのだという。先代のおかみさんが紅茶好きで、スキが高じて本格的な勉強をするようになり、愛妻家のご主人がメニューに加えたのが始まりらしい。

そして、お嫁さんもまたお姑さんにならって紅茶の勉強してその伝統を引き継いだと。

「私はまだまだなんですけど、ようやくお客様にお出しできるようになりまして」

「おかげさまで好評なんですよ」

恥ずかしそうにする奥さんを、旦那さんが愛おしそうに見遣る。

(素敵だな、仲のいいご夫婦で)

その光景が微笑ましくて、和やかで、優しい気持ちが広がった。
< 20 / 37 >

この作品をシェア

pagetop