私、古書店の雇われ主人です。
きまり悪そうに「つい時間を忘れてしまった」と微笑む羽鳥さんに、なぜだか胸が切なくなる。とたんに、ふわふわとして、ほのかに熱を帯びた複雑な気持ちが胸いっぱいに広がった。

「カンナさん?」

不思議そうに「どうかした?」と首を傾げる羽鳥さん。

(どうかしたかと問われても……)

「どうもしていません。何でもないですよ」

私はつとめて穏やかに微笑むと「お土産を買って早く帰りましょう」と彼を急かした。本当を言うと、ちょっと困惑していた。複雑で柔らかな掴みどころのないこの感情は何者なのか。その疑問をどうにもこうにも持て余して――。

「さて、お土産は何がいいだろう?」

「紅茶はどうですか? ほら、地元でとれた茶葉を使っているんですって」

(とにかく、今はお土産選びが最優先だよね。うん)

とりあえず、こうしている“今”を楽しもう。楽しみたい。私はあれこれと商品を手に取りお土産選びに没頭した。まるで淡く漂うその気配にのまれまいとするように。


数日後、私は紅茶をお土産に携えて桧垣夫人のお宅を訪れた。査定額の報告もあったし、夫人からは追加の買い取り依頼も受けていた。けれども――まずは挨拶がてらお土産を渡しつつ、私はあの古い食券について聞いてみた。

「あなた、あの食堂へ行ってきたの?」

桧垣夫人は古い食券をしげしげと眺めると「懐かしいわね」と微笑んだ。夫人はあの界隈に老舗の茶園があることもご存知で、お土産をとても喜んでくれた。

「私も主人もコーヒーよりも紅茶が好きでね」

そういえば、以前に買い取りでお邪魔したときも夫人は紅茶を出してくださった。とても香りのよいオレンジティーだったと思う。

「昔ね、二人で出かけたの。あの人は美術館がお目当てで、私は紅茶。そのとき、たまたま入ったのがあの食堂だったのよ」

夫人は想い出を慈しむように話してくれた。

「そうしたら、定食のほかに“美味しい紅茶”なんてメニューがあったものだから。もちろん頼んだわ。で、飲んだらこれがまた本当に美味しくて。おかみさんと紅茶談義に花が咲いてね」

「私も飲みました。とっても美味しくてびっくりしました」

ただ、淹れてくれたのは先代のおかみさんではなかったけれど。店主が代替わりしたことを伝えると、夫人は「そうなのね」と少し淋しげに目を伏せた。

「あの日、私たちは結婚記念日でね。記念日デートよろしく出かけていたの。それで、話の流れでそれを言ったら、おかみさんが“サービスです”って――」

使ったはずの“日替わり定食”の食券が、有効期限に訂正を加えられて戻ってきた、と。

「あの人、ずっと持っていたのね。栞がわりに使っていたなんて。私もとっておいたはずなんだけど、どこかにしまい忘れてしまったわ」

夫人は「年をとるとダメねぇ」とため息交じりに笑ってみせた。

「大切な栞をお返しできてよかったです」

想定内といってはあれだけど、決して意外な真相というほど派手な顛末でもない。時を経て語られた、とある夫婦の想い出話。それでも、私にとってはじゅうぶんロマンチックな物語だった。

「そうそう、追加で買い取っていただきたい本は書斎にまとめて置いてあるの。段ボール3箱くらいかしら」

「承知しました」

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