私、古書店の雇われ主人です。
書斎へ立ち入るのは前に買い取りにきたとき以来だった。

(まさに抜け殻、だよね……)

空っぽの本棚に囲まれたがらんとした空間に、段ボール箱が3つだけ。主を失いすべての蔵書を手放したその書斎はひどく空虚で切なくて、私はなんだか胸がつまった。

「この3箱よ。全部持っていってくださいな」

「あの……」

「何かしら?」

「よろしいのでしょうか、本当に」

買い取りに来たくせになんだけど。でも、本当の本当に全部手放してしまっていいのかなって。私はどうにも心配で、夫人に今一度だけ確認した。

「思い出のお品として手元に残しておきたいご本などはございませんか?」

「ないわ」

「ですけど――」

「要らないの。置いておきたくないのよ」

「えっ」

微笑む夫人の瞳は淋しげで、私はなんと言ってよいやら困ってしまった。

「ごめんなさいね。あなた、心配してくださっているのね。私があんまり景気よくぼんぼん売っちゃうから。勢いにまかせて後悔しやしないかって。後になって“あのときは正気じゃなかったのよ!”なんて」

「それは……」

「でもね、大丈夫なのよ。無理に忘れようとか、そういうのじゃないの。大丈夫だからこそ手放すの」

「大丈夫だからこそ、ですか?」

「そうよ。物なんてなくても想い出があるから」

そう言うと、夫人は教授が愛用していたアンティークチェアのひじ掛けをそっと撫でた。

「私、好きだったの。本を読んだり、絵を見たり、ジャズを聞いたり、大好きなことに夢中になっているあの人を見ているのが、本当に好きだった」

愛する夫について語る夫人の横顔をとても美しいと思った。恋する少女のような純粋さと、大人の女性の奥ゆかしさ、夫人の瞳はその両方を湛えているようだった。

「教授はジャズもお好きだったんですね」

「ええ。私はクラシック派なんだけどね」

夫人はお茶目な笑顔を見せると、私をまっすぐに見て言った。

「あの人が愛した本たちを、どうか生かしてやってちょうだい。あの子たちはここにいてはいけない。私に縛られるようなことがあってはいけないのよ」

(本たちを生かす……縛られるようなことがあってはいけない、か……)

書斎の本をすべて手放すようにと望んだのは桧垣教授だった。そして、夫人はその思いをしっかりと汲んでいる。私はお二人の切なる願いを叶えるべく、ここへはせ参じているわけだけど――。

「ところで、お祖父様はお元気?」

「へ?」

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