私、古書店の雇われ主人です。
唐突な質問に面を食らう私に、夫人は愉快そうに言った。

「お祖父様のモットーを聞いたことがあるわ。本は――」

「読まれてこそ、です」

「そう。人間も同じね。生きてこそ。しかも、私はあの人の分も“最高におもしろおかしく”生きなきゃならないから。それには身軽に越したことないのよ」

「身軽、ですか?」

正直、意味がわかるような、わからないような……。

「若いあなたにはピンとこないでしょうけど。“物”と“心”って下手をすると互いを縛りあってがんじがらめにしてしまうから。だいたい、年寄りはただでさえ動きが鈍くなっているんだもの。多くを持ちすぎないほうが健全でいられるのよ」

「そういう、ものでしょうか……」

(愛着のある物に囲まれた暮らしも幸福に思えるけれど)

やはりどうにも腑に落ちない。すると、見透かすように夫人は言った。

「愛着が執着に変わるのは嫌なのよ」

「えっ」

「蔵書をすべて手放すようにと言ったのは、あの人なりの優しさなんでしょうね。何者にも縛られずに自由に生きなさい、って。あ、きれいさっぱり僕を忘れろって話じゃないのよ、きっと。あの人だって、さすがにそれは淋しいでしょうし。ただ――」

過去を振り返るのは、ほどほどでよい。想い出は――それに囚われることなく、ときどき抱きしめるくらいがちょうどよい。

「忍びなかったんでしょうね。想い出という檻の中で孤独に生きる私を思うと。本当、あの人らしいわ」

夫人が語ってくれた桧垣教授の優しさは、若輩者の私にはまだまだきれいに理解できない深くて尊いものだった。

「ところで。あなた、あの食堂へ一人で出かけたの?」

「はい?」

夫人の質問って唐突だ。しかも、けっこうグイグイくる……。

「それとも、どなたかと? みんなで? 二人で?」

「えーと、お店の常連さんと二人で、ですけど」

「男性? 女性?」

「だ、男性ですが……」


(私、何で問い詰められてるのっっ)

「あらそう。ふーん」

(ふーん、って……)

まったく、意味深な笑みを浮かべる夫人の愉快そうなこと。

「あ、そうだ。美味しい紅茶の食券をサービスでいただいたんです」

私はさりげなく話題を軌道修正しようと試みた。

「よかったら、お友達と行かれてみてはどうですか?」

私は食券を二枚差し出しだ。けれども――夫人は素直に受け取ってはくれなかった。

「それ、あなたがお使いなさいな」

「え?」

「また一緒に出かけてきたらいいじゃない? その男性の常連さんと」

「ええっ」

(ああああ、ぜんぜん軌道修正になってないし……)

「恋せよ乙女!」

「もう二十代も半ばです」

「私から見ればバリバリの乙女よ」

「バリバリって……」

(乙女という言葉とセットではあまり使わないような?)

「仕事熱心なのはいいけど、古本に囲まれてくすぶっていちゃだめ。ガンガン恋しなさい」

「そ、そうですね……」

夫人のパワフルさに圧倒されて、困った私は曖昧に笑ってお茶を濁した。

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