私、古書店の雇われ主人です。
翌日。航君は来なかったけれど、夕方すぎに航君のお母さんが挨拶に来て下さった。若々しくてさっぱりとした印象の人で、目元のあたりが航君とそっくりだった。

「息子がお世話になりまして。ありがとうございます。ご挨拶が遅れてすみません」

「いえっ、あのっ……」

丁寧にお礼を言われて恐縮するばかり。でも、安心した。航君がここへ来ることに、お母さんが理解を示して下さったから。

「いつもご厚意に甘えて読ませていただいてばかりで……。よかったら雑用でも何でも、お店のお手伝いをさせてやってください」

「そんな、どうか気になさらないでください」

これも未来のお得意様への営業活動だと思っていますので、なんて。

「あの子、こちらへ来るのが楽しみなんです。ですから、お掃除でも力仕事でも、ご迷惑にならない範囲で言いつけてやってください。きっと喜びますから」

お母さんの話ぶりからは、航君がどんなにこの店を気に入ってくれているかが伝わった。

ここは本と人との出会いの場。古書の匂いに包まれて、言葉が織りなす豊かな世界と触れあって、航君が少しでも癒されるなら――。

私とお母さんは「じゃあ、ときどき“職業体験”ということで」と了解しあい、ふふふと小さく笑い合った。



定休日。午後になってから、私は数冊の“特別な本”を持って家を出た。行く先は市内にある「紫包堂(しほうどう)」という書店さん。

紫包堂さんは、同業の中ではとくに親しくさせていただいているお仲間さんだ。ただ、紫包堂さんは新刊も置いていて、うちとは扱っているジャンルもかなり違うのだけど――。

「おっ、カンナちゃん。久しぶりじゃねえの」

「色川(いろかわ)さん、先日会ったばかりじゃないですか、市場で」

「ありゃ、そうだっけか?」

店主の色川さんはいつもこんな調子で、明るくてフレンドリーな人。でも、歳は私の父と同じくらいだろうか? 

市場というのは組合に加入している古書店主が集まって本の売買をする仕入れの場。色川さんはひよっこの私に指導をしてくれる師匠であり、頼れる兄貴分なのだ。

「まあまあまあ。店開けるまでたっぷり時間あっから、くつろいで行きな」

紫包堂さんの開店時間は、なんと午後四時。開店は夕方で閉店は明け方という、まるで飲み屋さんのような営業スタイルでやっている。

そんな紫包堂さんの主力商品は「成人向け」だ。古書店にはそれぞれにカラーや強みがあり、お客様もそれを知っていて本を探しに来られたりする。

ちなみにうちの場合は、思想・哲学・文芸・美術など学術系の硬めな感じで、市内の大学の学生さんたちが教科書を売りにきたり買いにきたりすることも多い。
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