あたしとお義兄さん
22.それぞれの過去



「…貴方まで頭のおかしい人の仲間入りですか」

 鈴子の表情は至極険しい。
 不本意ながら、義兄のおかげで美貌に耐性をつけていた義妹は、一也を睨みつけている。

「まあ、そう尖るな。あんたは猶予が欲しいんだろう?」
 穏やかな恋をするまでの間の。
 するりと腰を抱いて、一也は額を鈴子に合わせた。

「約束するよ。俺はリンちゃんがその気にならなきゃ指一本触れねぇし、何の無理強いもしねぇ。ある意味理想の相手だと思うぜ。外科医だから忙しいし。亭主元気で留守がいい、ってな。あんたは家で好きにしてりゃいいよ。家事が嫌なら家政婦を雇う」

「御家族が許さないでしょう?医者の嫁が高卒の行かず後家なんて」
 その額を両拳の第一関節でスクリュー回転を付け、ゴリゴリと抉り、鈴子は反撃している。

「いてて、大丈夫さ。俺は妾の子だもん。跡取りじゃ無いしな」
「え?」
「それを知ったのが高校の頃でなー。ヤンチャは専らその頃の反動。今考えると青かったよな俺」

 苦笑して頭を掻いてると、鈴子はとてもヘンな顔をしていた。
 同情も出来ず、さりとて同意も出来ず、と言った顔だった。

 いい女だな、と一也は素直に思った。

 貴方の気持ちが分かるだの、そんなのは甘えだとか顔にも口にも出せないのは、彼女がそれだけの経験を積んできたからだ。

 人の想いをと歴史を自分の物差しで計れやしない、と心から思っている所為だ。

「静馬ともそれくらいに知り合った。あいつは真夜中に、高そうな単車一台で難しい峠ばかりを攻めてた」
 視線を落として黙り込んだ彼女の頭を、ぐりぐり撫でた。

「俺は家に引き取られてから、ずっと兄貴のスペアだった。…本妻の息子は出来が悪くてよ〜。うちの総合病院、継げる程の腕は無いんだわ。だからよう、経理方面からやらせりゃいいじゃんって言ってたんだが…義母がな、今もなんだが。どうも俺に兄貴の権利、全てを奪われるんじゃ無いかって強迫観念抱いてるらしくってさ」

 目に動揺の色を揺らしてブーケを持つ鈴子の前にしゃがんで、一也は一回り小さな柔らかい手を包んだ。

「親父は親父で実の母親から俺を取り上げるぐらい平気な男でよ。線の細い女で、そのショックもあって死んじまったらしいんだが。まあ…本妻にしてみりゃあたまんないよな。
 だが、なんとか義母も意地で耐えて黙ってたんだが、俺もこんなだろ?兄貴には医者は無理だ、なんてストレートに言っちまったんだよ。なんなら病院は俺が継ぐから、好きな事やらせりゃあいい、とも言ったっけ。
 初めて殴られたよ。お前はあの子から全てを取り上げる気か、って」

 包んだその手が熱かった。
 一也は少し驚いて、鈴子を見上げる。
 彼女は少し怒っていた。
 一也に対してでも義母に対してでも無い。
 おそらく彼を見舞ったその『状況』に。
 少し汗ばんで高くなった手のひらの熱が好ましい。

 静馬が彼女を好きになった理由わけが分かった気がした。

「荒れた俺は、氷の刃の様なあいつを一目見て面白いと思った。
 そいでな、とことん追い回してやったよ。どの辺であいつが根負けしたのかはもう覚えてないが…それからのツレだ。
 ─────多分な、あいつも闇を抱えている」

 鈴子の瞳がまた少し揺らいだ。
 知っているのだ。聡い女だと、そう一也は思う。

「俺はあいつを幸せにしてやりたかった。
 ……でも、忘れてたよ。あんたにだって、幸せになる権利があるんだ。ましてや、あいつの闇は俺みたいに後付けのモンじゃねえ。
 ありゃあ先天性の、本人にもどうしようもない心に穿つ深い穴だ。優しいあんたを喰らい尽くしても尚、塞がるかどうかも分んねぇのにな」

 美夜が椅子にもたれて視線を落としていた。
 4年の歳月を共にした自分とて、静馬の心の琴線に、触れる事すら叶わなかった。
 それ程に彼は周囲に壁を張り巡らせ、本当の自分を曝け出すのを嫌ったのだ。

 それは即ち、彼が自分自身を嫌っていた、という事だ。

 通り一遍の付き合いをして、偽りで固めた静馬を好きだと告白して、何故、彼に届くと思えたのだろう。
 それを成し得たのは、彼に何も望まず、ただそこに居る存在を丸ごと受け入れた、目の前にいる彼女だけ。

「まぁな、俺は勤務医とは言っても兄貴が立派な…ん、まあそこそこの医者になってくれりゃあ、どっか別の所で開業しようかと思ってんだ。てな訳でコネ作りとか、資金繰りとかで結構忙しくてよ。女遊びもその辺心得たプロの女にしか手を出さないって誓うから、こうなった責任取らせてくれねぇか?ま、当然腹いせもあんだけどよ。そっちが本命だから。
 …なぁ、安心して俺に護らせてくれよ」

 最後の台詞は立ち上がり、一也は少年の様に無邪気に微笑みながら、彼女の冷たくなった二の腕をするりと暖かい手を滑らせる。
 ブーケの蒸せ返る様な香りが二人を包み込んだ。

 きつすぎるソレにくらり、と目眩がした、その時。


「静馬が来たわよ」

 美夜の声と同時に肩で息をしながら、美貌の青年が黒髪を乱して走り込んで来た。

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