過ぎ行く時間の中で
5年前の自分は、当時24歳。大学も行くや行かずで、何をするでもなく、ただぶらぶ
らしていた。
フリーターと言うと聞こえはいいが、バイトも一生懸命というわけでもなく、ただ時間が無駄に過ぎていくのを、あせるでもなく、しかしどこかイライラしながら過ごしていた。
その頃の自分と言えば、どうすれば1日が問題なく、楽しく過ごせるかということだけを無意識に考えながら生きていたのかもしれない。
大学内で頭が悪いわけではない。ただ、じゃぁ大学生活というルーティンを無意義に過ごすことに、言いようもない違和感を感じていたのである。
その答えを見出せないままに、留年までして、結局やはり毎日同じ生活を送っているという抜け出せないパラドクスに、いらついていたのかもしれない。
こんな大学生のすることは、決まっている。
博打である。
博打というのは、負けると思っても突っ込んでいくものである。大げさに言えば、『死』を垣間見たいのである。
そしてその後、勝つことで『生』を感じたいのである。
そういう風に、とある本で読んだことがある。
まさにそのとおりであった。
しかし、やっぱり負けてしまう、つまり大げさに言うところの『死』の状態になっても、それはそれでいいかなって思うふしがあったことも間違いはなかった。
そう、彼女に会うまでは―。
らしていた。
フリーターと言うと聞こえはいいが、バイトも一生懸命というわけでもなく、ただ時間が無駄に過ぎていくのを、あせるでもなく、しかしどこかイライラしながら過ごしていた。
その頃の自分と言えば、どうすれば1日が問題なく、楽しく過ごせるかということだけを無意識に考えながら生きていたのかもしれない。
大学内で頭が悪いわけではない。ただ、じゃぁ大学生活というルーティンを無意義に過ごすことに、言いようもない違和感を感じていたのである。
その答えを見出せないままに、留年までして、結局やはり毎日同じ生活を送っているという抜け出せないパラドクスに、いらついていたのかもしれない。
こんな大学生のすることは、決まっている。
博打である。
博打というのは、負けると思っても突っ込んでいくものである。大げさに言えば、『死』を垣間見たいのである。
そしてその後、勝つことで『生』を感じたいのである。
そういう風に、とある本で読んだことがある。
まさにそのとおりであった。
しかし、やっぱり負けてしまう、つまり大げさに言うところの『死』の状態になっても、それはそれでいいかなって思うふしがあったことも間違いはなかった。
そう、彼女に会うまでは―。