ひだまりのようなその形に幸福論と名前をつけたなら
「自分が、自分じゃなくなっていくの。何が嫌で、何が好きとか、分かんなくなって。笑えなくなって」

『…うん』


「ずっと、こわくて。私には、誘拐犯さんみたいな優しさも、全部全部引き寄せて、捕まえておける強さもないよ、だから、こわくて。全部全部なくなっちゃうのに、でもあの部屋にいると、今日が幸せで、明日も幸せで、そういう、」



『……』




「…そういう、不安。あなたは笑うかな」


お父さんとお母さんは、笑うかな。

自分でも、泣いているようにしか聞こえなかった。
それなのに涙の一粒さえ出てこない私はやっぱり退廃的なのだ。


大切で、ずっと傍にいたくて、ずっと傍にいてほしくて、ずっと傍に居ることが当たり前だと思っていたあの時から、色を失って二年。
色の無い世界で死んだように生きてきた。

もう二度とこんな思いはしたくない。大切な人を失くしたくない。
そう思ってこれまで一人でいたのに、出逢ってしまった。
大切で離れたくない人に出逢ってしまった。



「ねぇ、笑ってくれる?可笑しいねって笑ってほしいの。ねえ、笑ってよ、突き放してくれたら、こんな、幸せになんか…っ」



いろんな感情が綯い交ぜになって流れる言葉。
言っていることはめちゃくちゃだし、論理も破綻していることは分かっているけど止まってくれない。

こわかったと叫ぶことはできるのに、それなのに離れられなかった。
あんなに大きな未練を残して、幸せになりたくないだなんて言葉を私は持っていない。

もういらないと思っていたのに、あたたかな幸福を手にしてしまった。手離すことがこわくなるくらいささやかな温もり。

電話越しの声が息を吐く。手が震えていた。この後に来る言葉がこわくてこわくて、どうしたらいいのか分からない。
ここで電話を切ってしまえたならきっと楽なのだろうけど、それができない弱い私は目をきつく閉じた。



『…笑わないよ。笑うわけ、ない』




私の叫びの様な声を、誘拐犯さんは全部受け止めるみたいな言葉だった。
励ましとか同情とか、そんなものは誘拐犯さんには似合わなかった。
いつも通りの不愛想で、静かな声がしっかりと否定する。

ああ、そうだった。この人はこういう人だった。

『取り敢えず、あの空き地で待ってて』


———迎えにいくから。


その言葉がどれほど私を救うかを、誘拐犯さんは知ってる。



『ひとりにしたら、君は死んじゃいそうだから。誘拐はまだしも、殺人はごめんだ』



誘拐犯さんが、苦笑いを含んだ声で言った。

私が勝手に死んだって誘拐犯さんは捕まらないのに、それを自分の責任にするお兄さんは、一体何処までお人好しなんだろうか。

あの部屋に私が戻っていいのか分からない。
それでも私はその優しさを拒否する術を知らなくて、甘えることしかできなくて、幸せが一度幕を閉じたあの空き地へと向かった。

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