ひだまりのようなその形に幸福論と名前をつけたなら
紫陽花が咲いている場所とは聞いていたものの、ここまで立派なものを想像していなかった故に、咄嗟の言葉が出てこなかった。



「…すごい、綺麗」

「だろ」

漸く出てきた言葉に誘拐犯さんは目を細める。
まるで自分の持ち物を自慢するかのように何だか微笑ましくなって、私はそうっと声を潜めて聞いた。


「こんな綺麗なところ知ってたんだね。誰かと来たことがあるの?」


とてもとても綺麗な場所だから、きっと大切な誰かと一緒に来たことがあるのだろう。
そんな素朴で当たり前の想像から尋ねた問いに、誘拐犯さんは一瞬長い睫毛を伏せた。

頬に落ちた影を見て、私はしまったと漸く後悔する。

とても、踏み込んだことを聞いてしまったと思った。


「…あ、えっと」


「ないよ。誰かと来たことは、ない。連れてきたのは、君がはじめて」



言葉が出てこなかった。
慌てて話題を変えようと口を開きかけたとき、誘拐犯さんの言葉が遮った。

見れば、誘拐犯さんはただじっと、何をするでもなく紫陽花を見つめている。

無理矢理に殺した記憶が、あるのだと思った。
きっと誘拐犯さんの瞼の裏には、大切な人が、今でもいるのだ。

その記憶を知る権利を、私は持ち得ていない。
あまりにも知らなさすぎるのだ。


「…そっか。それは嬉しいかも」


いつも通りにころころと笑って見せる。
そうすれば誘拐犯さんは、静かに頷いた。



揺れる水面、濡れた髪先、鮮やかな花弁の色。
私には勿体ないと思ってしまうほどのその光景を、頭の中で繰り返した。
あまり強く記憶に残さない方がいいということだけは確かだった。

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