ひだまりのようなその形に幸福論と名前をつけたなら
「…包丁、危ないよ」

「照れてんの?」

「うるさいなぁ!」


揶揄うような口調。私の耳はきっとゆでだこの如く赤くなっているのだろう。
これでは作業が進まないではないか。

そう考えながら、私はもう一度誘拐犯さんに尋ねた。


「どうしたんですか」

「…別に何でもないよ。でも、暫くじっとしてて」

「うん」


きっと今日も、この人は違う誰かを見ているのだろうな、と思った。
そうでなければ、私にこんなことをする理由が見当たらない。

何をするでもなくただ私を抱きしめている誘拐犯さん。
私は包丁を置いて黙って腕の中に納まっていた。
少しでも動けば消えてしまうような、儚い何かがある気がした。



「……ごめん、もういいよ。作業邪魔してごめんね」

「…ううん、人肌恋しくなったらいつでもどうぞ」


誘拐犯さんの腕から解放されたのはそれから2分ほど経ってから。
やっぱり誘拐犯さんの体温は温かくて、暫く離れたくないような、そんな未練を抱かせる力があると思う。それは、誘拐犯さん自体が何かに未練を抱いているから、なのだろうか。

ごめん、と謝って離れていった誘拐犯さんは、何事もなかったように雑誌をめくっている。

紙をめくる音が響く中で、私も何事もなかったように準備を再開した。

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