ひだまりのようなその形に幸福論と名前をつけたなら
暫く私がしゃべり続けて、気が付けば夜も深くなる時間帯。
私はお喋りを切り上げて、誘拐犯さんの隣を歩いて家へ帰った。




目に優しい明るさの灯る部屋に帰れば、私は何も言わずごそごぞと誘拐犯さんのベットに入る。
誘拐犯さんは何も言わずにそれを受け入れて、私はいつも通り誘拐犯さんの背中に額をくっつけた。

ひだまりのような匂いに包まれると、どうして隠してしまったのか、少しだけ分かる気がした。
誘拐犯さんはもう眠いかもしれない。それでも胸に留めておくには大きすぎて、整理の付かない頭でしゃべり始める。



「私、多分、誘拐犯さんと離れるのが嫌で、隠したんだと思う」


考える前に出た言葉に、私は自分でそうだったのかと納得した。



「…友達が出来たら、約束の終わる日が、近づく気がして、」

「…うん」


誘拐犯さんからの返事に私は息を整える。
何が言いたいのかは整理できていないし自分でもまだよく分かっていないけれど、今言わなければこの先はもうない気がしていた。


「私がひとつずつ幸せになって、嬉しいことが増えていくたびに、誘拐犯さんと一緒にいれる日が少なくなっていく気がするの」


私たちが一緒にいるのは、いわば私のリハビリのため。
だから病気が治れば、一緒に暮らす期間は終了なのだ。そういう約束を、呑んだはずだった。

けれど一緒にいればいるほどに、その日々が、その人の存在が大きくなって、今や心のほぼ全部を占めてしまった。

その感情が一体何を意味するのか、分からない。
愛かもしれない、恋かもしれない。あるいは、ただの愛着、執着かもしれない。

けれど、願うことはただひとつ。本当に、本当に心から、



「…ずっと傍にいてよ」



それだけでよかった。

だって、苦しい。
こんなにも心臓に染み込んでしまった存在が消えてしまったなら、きっと苦しい。あんな失望感は、もう二度と感じたくない。


———あなたのいない世界は、息が、


「……苦しい」


自分にとっての幸福とはきっとこの人のことだと、はじめて自覚した。
この人が傍にいればきっと私は幸せで、リハビリなんてする必要はなくて、傍にいて、隣であたたかいままでいてくれさえすれば、それだけで。


「なんで、ずっと一緒はだめなの…?一緒にいたいよ、ずっと、この部屋で一緒がいいよ」

「…それは、どうして約束を破ったらいけないのか聞いてるのと同じだ」


私の願いに、誘拐犯さんは答えない。
こんな時くらい、簡単な嘘ひとつで騙すくらいしてくれたならいいのにと思った。

代わりに、今まで背を向けていた誘拐犯さんが体をこちらに向けて、隠すようにして私の頭を掻き抱いた。
心臓の音が、聞こえる。今やそれがないと私の心臓は、音を止めてしまう。

誘拐犯さんの手が余りにも優しくて、切なくて、私は何も言えなくなってしまった。

この人はどうしてこうも、世界の全部みたいな声で、まるで慈しむかのように触るのだろう。



浸透してしまった緩くあたたかな体温を掴んで離せない欲深さを恨むより、今はただ、傍にいたいと願うことを許してほしいと思った。
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