あなたが生きるわたしの明日
会社を出ると外はもう真っ暗だった。

書類整理課のみんなと「お疲れ様」と言い合い、駅に向かう。

今日もまた口の周りのしわがひどいことになっているだろう。
腰も痛いし、肩も痛い。
だけど、心は晴れやかだった。
きっと、こういうのを充実感というんだろうな。

「陽子」

そんな声が後ろから聞こえてきた。

反射的に立ち止まり、振り返るとひとりのおじさんがこっちに向かって小走りでやってくるのが見えた。

おじさんは私の前で立ち止まり、息を整えると「陽子」ともう一度言った。

誰?と思いながらおじさんの顔をよく見る。

「あ」

確かこの人は。

「中野部長?」

二回しか会ったことはないから、顔ははっきりと覚えているわけじゃないけど、陽子さんをこんなふうに呼ぶということはきっとこの人がそうなんだろう。

「どうして……電話に出てくれない?」

やっぱりか。
私はうんざりした。
もともと疲れていたのもあったし、こんなふうに何回も電話をかけてきた挙句、電話に出ない理由を直接聞いてくるなんて。

空気の読めないおじさんだ。

私が黙っているとおじさんはもう一度「なぁ、陽子」と呼んだ。

「場所を変えて話さないか? 陽子の家でもいいし。今日は残業と言ってあるから遅くなっても僕は構わない」

おじさんに腕を掴まれて、反射的に腕をふりほどいた。

「なにするんですか!?」

「なぁ、陽子。落ち着けよ。ちゃんと話そう、な?」

おじさんはそう言ってへらへらと笑った。

「わかるよ、陽子だけあんな課に回されて悔しい気持ち。僕だって悔しいよ。でも、上が決めたことなんだから仕方ないだろう? いつまでもすねてないで。ここじゃ会社の連中に見られるかもしれないから、陽子の家に行こう、な?」

な?な?とおじさんはしきりに繰り返す。
誰かに見られることにおびえているようだ。

私はそんなおじさんを客観的に見つめていた。

わからないのだ。
どうしてこの人はこんなに平気な顔で陽子さんに声をかけてこられるのか。
口ぶりからすると、まだやり直せると思っているみたいだ。
陽子さんが、自分だけ『あんな課』に回されてすねていると思っているらしい。

陽子さんは、一人で悩んで一人で死のうとしていたのに。
陽子さんがそれほど悩んでいたことにもこの男は気づいていないのだろう。
どれほどの気持ちで練炭を用意し決行日まで決めていたかも知らずに。

この男はへらへらと笑う。

私にはわからないのだ。
陽子さんは、この男のどこを好きになったのだろう。

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