我喜歡你〜君が好き〜
時計の針が19時を刺したのを確認して渚はパソコンの電源を落とした。

いつもは定時での退社を心がけていたが、急な案件が入り資料作りに追われていた結果1時間半の残業をする羽目になってしまった。

荷物をまとめて会社を出る。社員証をしまおうとしてところでカバンの中にいつもと違うものがあるのに気がついて、それを取り出した。

一昨日のランチの後、理依奈に無理やり渡された今話題の恋愛小説だ。

「たまにはいつもと違う場所で、いつもと違うことをしてみなさい!それが、出会いを作る第一歩よ!」

理依奈の言葉が思い出されて凪沙は小さくため息をこぼす。

別に出会いを求めてはいないのだれど…。

そうは思いながらも、せっかくの友人の行為だから…と会社を出ていつもとは違う方向へ歩いてみた。どうせ明日は休み。すこしくらい夜遅くなっても何の支障もない。休日の予定などないのだから。


しばらく行くとオープンカフェが目に止まった。
公園に隣接するそのカフェは落ち着いた雰囲気でお客もまばらである。

凪沙はそのカフェに入り、カフェモカを注文してテラス席に座った。
店員がブランケットを貸してくれたのでありがたくいただき、膝にかける。昼間は春の陽気とはいえ、まだまだ朝晩は冷える。

カフェモカを一口飲んで、凪沙は理依奈からもらった小説を開いた。




ジャーハオは仕事を終えるとチューミンに言われた通りスーツから私服に着替えて、自宅周辺を散策していた。

デニムにニットを合わせ、その上からジャケットを着る。今年38歳のジャーハオだが私服姿だと幾分若く見え、またそれが自身の持つ美貌を輝かせる。

それを自覚していないわけではなかったが、ジャーハオは街に出てから不特定多数の女性に幾つもの好意の視線を浴びせられていた。

日本人ならジャーハオのことを知らないはずだから。と言っていたチューミンを恨めしく思う。

疲れた。結局どこに行っても女どもの視線ばかり感じて落ち着かない。

だいぶ歩いて疲れてきたので、適当に見つけたオープンカフェに入った。

やってきたジャーハオに店員の女性は不自然すぎる笑顔と猫なでの声で対応する。ホットコーヒーを頼んだジャーハオになんとか会話の糸口を見つけようと近づいてきたので、ジャーハオはそれを無視してテラス席に出た。

さすがにこんな時間だから、誰もいないかと思ったがテラスには女性が1人座っていた。

ちっ…ここにも女がいたのか…。

いっそのことテイクアウトして自宅に帰りながら飲もうかとも思ったが、足の疲労には勝てず。

本を読んでいるようだし、こちらに気がつかなければ大丈夫か?

と女性の死角になる席に腰を下ろした。

…それにしても日本の春は寒い。台湾の様に通年で比較的温暖ではないこの国は、四季という季節の回りがあるのを忘れていた。

日中の暖かさを信じて薄着できたのは間違いだったな。先週まで台湾にいたせいか、夜の寒さが思ったよりも堪える。

コーヒーを飲んだら早々に立ち去ろうとジャーハオがカップを持った時

クションっ!

と盛大にくしゃみをしてしまった。




久しぶりに読んだ恋愛小説は凪沙を十分に夢中にさせた。カフェテラスにいることも忘れて黙々と読み続けていたところに

クションっ!

と男性のくしゃみが聞こえて一気に現実に戻される。

いけない…入り込んでしまった。
思い出した様にすっかり冷めてしまったカフェモカに口をつけ、時間を確認しようと腕時計を覗き込んだ時

クションっ!

再び男性のくしゃみが聞こえた。

失礼かとも思ったが反射的にくしゃみの方向に視線を向けると、顔は見えなかったが1人の男性がテラス席で肩を震わせたところだった。

こんな時間に、こんなところに1人?

自分のことはさておいて、男性を気にした凪沙だったが、どうせ、彼女との待ち合わせだろうとすぐに思考を小説に戻した。

物語はクライマックスに差しかかっていた。主人公の女が死んでしまった恋人に別れを告げる、最もいい場面で

クションっ!

と三度くしゃみが凪沙を現実に引き戻した。

もう!いいところなのに!
気にしない様にと思ったが、立て続けに3回もくしゃみを聞かされてはいくら夢中になっていても集中力が切れてしまう。

完全に小説から興味がそれた凪沙は、ため息を1つ落としてカフェモカを飲み干して席を立った。
そして、先程から肩を震わせてくしゃみを繰り返す男に近づき、目の前に店員から借りたブランケットを差し出した。

「ここのお店のですけど、良ければどうぞ。風邪ひきますよ。」

驚いた様に顔を上げた男に凪沙は一瞬だけ見とれてしまった。

少し長めの焦げ茶色の髪に意志の強そうな眉。日本人にはない高い鼻に、切れ長の双眸と色素の薄い瞳。

うわっ…カッコいい…。

そう思ってすぐに思考を戻す。
凪沙の申し出に驚き一瞬だけ固まった男は弾かれた様に口を開いた。

「ご厚意には感謝するが、これでは君が寒いのでは?」
「私はもう帰るので、ご心配なく。春の様はまだ冷えます。ご自愛くださいね。」

いい声だなー…。と思いつつもそれ以上会話が続けられず、凪沙は足早に男のそばから離れた。


遠くなったカフェテリアを振り返り凪沙はなぜか理依奈の言葉を思い出した。

出会いがあるのよ。

まさかね…?
あんな美丈夫だもん彼女と待ち合わせしていたんだろうし。突然ブランケットを差し出した私のことなんて、変な女としか思っていないかもしれない。

そこまできて再び理依奈の声が蘇る。

…どうせ。とか、私なんて。とかいうのをやめなさい。…もしかしたら。って思うだけで…。


もしかしたら…

もしかしたら…?
…なんだっていうのよ?

凪沙は軽く頭を振りながら駅に向かって再び歩き出した。
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