愛も罪も
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カフェに入り、通りの見える窓側の席に向かい合って座り、昼食を終えた二人はお茶を飲んでいた。お互いに他愛も無い話題を一頻り終えた所で会話が途絶えてしまった。その沈黙を埋める為に、二人はお茶を口にする。レモンティーの入ったマグカップを持つ里美の右手に裕弥の視線が止まる。その右手の薬指には、3つの小さなハートが並んだシルバーリングが輝いていた。
数ヶ月前までは、そこに自分がプレゼントをしたリングが嵌められていた事を裕弥は思い出し、里美のリングにそれを重ねて見ていた。
それは、ブラウンマーブルが少し入り交じった、透明な樹脂で作られたリングで、中央にはピンクゴールドのハートに小さなスワロフスキーガラスが鏤められたパヴェが載せてあった。交際を始めて二ヶ月が経った頃、里美と一緒に選んでプレゼントした物だ。
そんな里美と過ごした日々を思い出していると、裕弥の脳裏にどうしてもあの事が浮かんでくる。
いっその事、封印していた扉を開いて、中に閉じ込めていた想いをぶちまけてしまおうか?
だが、そんな事をして平常心を保っていられるだろうか。一度傷を負った心の穴が、これ以上深く広がってしまったらどうしよう。それどころか女性に対して曲折心を抱いてしまうかもしれない。そう考えると、その扉を開く自信が無かった。
恋愛をする都度その扉の前に立ち止まってしまうのか。
このままその傷を意識しながら過ごして行くのも非常に辛い。この蟠りをここで処置すべきなのか、裕弥の心は揺れていた。
不図、手元にあるマグカップを見下ろす。中には温かい烏龍茶が入っており、そこに裕弥の顔と共に心情も映し出されていた。
その暗い表情を目にして、強い自己嫌悪を感じた。
こうして二人が会話をする機会を得たのだ。ならば今、扉を開く時が来たのではないだろうか? もう苦い想いを抱えなくても良いのではないかと考え、裕弥は決心した。扉を開いてドロドロした汚い気持ちは綺麗さっぱり洗い流してしまおうと。
そして、その核心に触れる。
「…その後どう? …奴とは?」
裕弥の言葉に、里美は驚き大きく目を見開く。そして表情が曇り、両手で包んでいたマグカップに視線を落とした。裕弥もつられてその視線を追う。カップの縁に口紅の淡いピンク色が付着しているのを、右の親指で拭いながら里美はゆっくりと話し出す。
「…最近、あまり会ってなくて。友達と騒いでる方が楽しいみたい」
彼は里美のいるスポーツ観戦やライブ観覧をするサークルの他に、旅行プランを立てるサークルにも入っていた。最近はその旅行プランサークルに頻繁に顔を出していて、そのサークルでの旅費を稼ぐ為にアルバイトに精を出しているので会う機会が少なくなっているとの事。
眉を顰める里美の眼に哀思の光が広がる。
裕弥はそのまま黙っていた。
彼女が心変わりした相手を、同じサークルにいた裕弥は当然知っていた。確かにいつも男同士で合コンだのプロレスだのと馬鹿騒ぎしていて、こまめに彼女に尽くすタイプとは思えなかった。里美との交際は三ヶ月が過ぎており、二人の仲が安定して気が抜けてきているのであろう。それでまた友達の所へ足が向くのも想像できた。
「…今になって、こんな事を話すのはどうかと思うかもしれないけど、裕くんの気持ちも考えないで、あの時は自分の気持ちを伝える事にしか気が回らなかった。だけどもっと、きちんと話し合うべきだったって反省してる。それにもっと言い方があった気がするし。ただ、好きな人が出来たから別れて欲しい、なんて…」
その聞き覚えのある言葉によって、裕弥の心臓は強く握られたかのようで、切ない痛みが広がった。そしてその情景が甦る。
それは突然の事だった。ある日、話したい事があるので大学の裏庭に来て欲しいと呼び出され『あたし…裕くんを嫌いになったわけじゃないの。でも好きな人がいて…だから別れて欲しいの』そう言われ、ショックで何も言えなかった。そして里美は翌日から、裕弥を避けて姿を見せなくなった。どうしてそんな急に別れが訪れる事になったのか、問い詰めて引き止める事も出来たのだろうが、裕弥にはそんな勇気は無かった。そんな事をしても自分が傷付いて、惨めになるだけだと思えたからだ。それでそのまま、その想いは封印してしまったのだった。
裕弥のカップを持つ両手に念わず力が入る。そんな裕弥の様子には気づかず、里美は話を続けた。
「あの時、あたしは教習所に通っていて、雨が降っていたある日、歩道を通っていると、前から来た自転車と擦れ違いざまに傘がぶつかり、落としそうになったのを両手で掴むと、持っていた教習所の本を落としてしまって。そしたら横を通る車の水飛沫で本がびしょ濡れになったの。もう最悪でしょ?」
里美はその場面を思い浮かべて、鼻先に指を添えクスッと笑う。
「そこへ同じ教習所に通っていたあの人が通りかかって『あー、泥まみれじゃん』って、本を拾って言って。見ると本当に泥水で汚れてて、その言葉に泣きそうになってしまって…。そんなあたしに気づいて『オレ、教科書とかマジメに見ないし、交換してやるよ』って、自分の持っていた本をあたしにくれたの。その日から後も泥水で汚くなってた教科書をずっと使っていたのを見て、悪い事しちゃったな…って、でもその優しさが嬉しかった。
それから彼の事が気になり始めて…。裕くんの事を嫌いになったわけじゃなかったけど、でも裕くんと付き合いながらも、他の人の事を考えるのはいけない事だと思って、そんな気持ちで付き合っていたくは無かったし、だから別れて欲しいって言ったの。今更だけど、きちんと話さなくてごめんね」
そう言って、裕弥の目を真っ直ぐ見つめた。それは今話した事が作られた嘘では無く、真実だという事を示していた。
裕弥は今迄、相手と親密な関係になり、比べられ、その結果自分が見限られたのだと思っていた。だが今の話からするとそうでは無く、一方的に里美の中で相手の存在が大きくなり、その状況に耐えられなくなって別れを切り出したようだ。
里美の交際相手と裕弥は全く違うタイプだ。だから相手と比べられて捨てられたのなら、自分がつまらない人間だと言われた気がして、それで傷付き、彼女の事を避けていた。今、真相が明らかになり、裕弥は幾分里美に対する過去に句点が付く気がした。
感じる事は、その時に欲しくて手に入れ、大切にしていた物でも、時間が経過し、その物に対しての執着心が薄れ、新たな物を求めるという、物欲が湧き起こるのではないかと。それは誰もが備え持っている感情であって、裕弥も理解出来ない訳では無かった。
高校時代に二年間交際していた彼女がいた。付き合い始めた頃は、一時も離れたくない程お互いを必要としていたが、半年を過ぎる頃にはその感情も安定し、一年以上ともなれば、当初と比較すると、情熱も薄れて行く。そして高校を卒業し、彼女は英文科の短期大学へ、裕弥は今の大学へと進学し、其々別々の時間を過ごすと同時に気持ちの擦れ違いも多くなり、どちらが原因というわけでもなく、その恋は終わりを迎えた。
形は違うが、一年間交際していた里美との仲も、時間の経過と共に慣れが生じた末の結果だったのだろうか。
話を終えて、裕弥は別れ話の時に理由を聞かなくて良かったと感じた。あの時にこの話しを聞いていたら、嫉妬で逆上していたかもしれない。だが時間が経った今では、里美に起こった一つの出来事として聞く事が出来た。
裕弥は烏龍茶を口に運ぶ。温かいお茶が喉を通り体を解すと共に、心に痞えていた蟠りも解けて行く様な気がした。そしてゆっくりとテーブルの上にカップを置く僅かな間に気持ちを静めた。
「話を聞けて良かったよ」
口調は落ち着いていて、そこには先程の暗い表情は無く、口元に笑みさえも零れる。過去のドロドロとした感情は形を崩し、本来あるべき姿へ戻ろうとしていた。
そんな裕弥を目にし、裕弥に対しての罪悪感も、僅かながらに軽減される様な気がして、里美の表情も解れていった。