愛も罪も
2
朝から降っていた雨は止み、昼食を済ませ暇を持て余していた理奈は、情緒不安定で勉強をする気にもなれず、気分転換に散歩をする事にした。ベージュに袖とフードがネイビーのラグランのパーカにグレーのデニム、バーガンディーのスニーカーといった軽装に、何も持たず手ぶらで家を出た。そして目的を持たずに足の赴くまま、川沿いの道を歩く。
考えたい事があるはずなのに、実際それについて考えようとすると、脳がそれを拒否するかの様に、頭の中には何も浮かんでこない。その顔の表情も生気が失せて沈んでいた。
静かに流れる風は、先程まで降っていた雨の匂いと草の匂いを運んでくる。こうして頭の中を空にして、風に吹かれるのは心地好い。乱れた心も次第に落ち着いてくる。
「理奈! 何処へ行くんだ?」
呼び止められて声の聞こえた方へ視線を向けた。
「あ、ハル…」
そこには黒いジャージ姿で、抹茶色の傘を持って、大きな2 way バッグを肩から斜めに掛けている悠がいた。
「別に何処にも…。ただの散歩だよ」
「散歩?」
「そ、気分転換に」
「付き合おうか?」
「………」
理奈の暗い表情を見て心配し、悠はそのまま散歩に付き合った。
「オレ、昨日、人を拾ったんだよね」
「えっ?」
突拍子も無い事を言い出す悠に、理奈は目を見開いて驚いた。
「神社の下の道路があるだろ? そこで蹲ってて、顔色が悪いから救急車を呼ぶって言ったら止めてくれって言うし、雨は降ってくるし、でもそのまま放って置く訳にもいかないじゃん。だから家に連れて帰ったんだよ」
「そんな見ず知らずの人、危ないよ。警察に連絡した方が良いんじゃない?」
「んー…」
悠は右手を口元に当てて暫し視線を伏せ、少ししてから口を開いた。
「でも、その人怪我をしてたし。そんな危険人物にも見えなかったよ」
「怪我をしてたら尚更だよ。何かの事故に巻き込まれたのかもしれないよ?」
「だとしても、ちゃんと手当はしてあるんだよ。だから何か訳ありなんじゃないかな…」
何言ってんの⁉ 訳ありを泊めるなよっ!
本当にその人物が善良なのか不確かな事なのに、疑念を抱かずに呑気な事を言っている悠に、多少の苛立ちを湧かせる理奈。
「家の人は? 反対されなかった?」
「実はまだ内緒」
「えーっ⁉ 大丈夫なの⁉」
「適当な事言ってゴマカシてる」
「そんな呑気な事言って、何かあっても知らないからね!」
お人好しな悠を心配して、少し呆れた口調で言った。
二人はのんびりとした歩調で10分程歩くと、軈て小さな屋根付きの停留所へ辿り着き、そのベンチに腰を下ろした。
「そういえば今日、練習試合だったっけ? どうだった?」
訊かれて悠は右手でピースサインを出し、それを嬉しげに理奈の目の前へと突き出した。
「2−1で勝った! しかも2点目は、後半38分にオレが決めたんだ。すげぇだろ? オレもやるときゃやるよ!」
満面の笑みで得意げに話す。
悠はスターティングメンバーの背番号6。ポジションは中盤の右側で、ポジションからして多くは敵の持つポールをカットする事と、味方へのパス回しをするのだが、今日は久しぶりにシュートのチャンスを貰い、見事にゴールを決めた。
「そっか、良かったね」
悠の活躍を喜んでくれてはいるものの、その言葉に力は無かった。
悠はいつもと違って元気の無い理奈に気づいていたし、その原因も大凡察しがついていた。恐らくその原因とは、一昨日街で出会ったあの人物だろう。
以前、理奈から大学生の家庭教師に勉強を教わっていると聞いた事があった。それがどんな人物か実際には会った事は無かったが、何故だか一昨日の人物がその家庭教師だと感じた。そしてその後の理奈の様子からして、きっと彼に好意を持っているのだと気づいた。隣に女性を連れていたのが、落ち込んでいる理由であろう。悠は柔らかな物腰で理奈に真相を訊いてみる。
「この間の奴の事が気に掛かってるんだろ?」
「えっ?」
言われて理奈の心臓は大きく音を立てて反応した。
「あいつ、理奈の家教だろ? あいつの事好きなんだ?」
「………」
悠の言う事は当たっていたが、それには答えずに視線を伏せた。
幼い頃から知っていて、会えば喧嘩腰になってしまう悠には、今回本気なだけに気恥ずかしくて、こういう話はしたくなかった。
悠は何も言わない理奈に、この事についてまだ触れてもいいものか迷ったが、もう少し追及してみる事にした。
「相手に気持ちは伝えたのか?」
「ま、まさかっ! そんな事できないよ!」
念わずむきになって否定した。そんな赤面しながら張り詰めた顔をしている理奈を見て、その気持ちが本気なんだと悠にも伝わった。
「なんで? 家教だからか? それとも女がいるから?」
「………」
訊かれて理奈は言葉に困った。裕弥に対して一言では言い切れない複雑な想いがあり、それで想いを告げるのを躊躇っていたからだ。
もし、告白して断られても、その後も麻生さんとは週二日会わなければならないし、気不味い雰囲気になったり、今迄の様にはいられなくなったら怖いもん。
それに麻生さんは大人だし、あたしの事なんてきっと相手にしてくれないよ。
最近、彼女がいないって聞いたけど、それまでは絶対に彼女がいると思ってたし。なのにこの間は女性と一緒にいたし…。もしかしたらもう彼女ができたのかもしれない。
様々な想いが理奈の胸に湧き起こり混乱した。とにかく告白するにも理奈にはタイミングと勇気が必要で、今はまだその両方が備わってはいなかった。
「ハルには判らないよ…」
その言葉に悠は気分を害した。理奈が落ち込んでいるから気持ちを楽にしてあげようと話を訊いているのに、自分の気持ちを話さず、尚且つ、お節介は止めてくれと言わんばかりに、悠を突き放す言い方をする。その事が悠には気に入らなかった。
「あっそ。で? そいつの何処に惚れたわけ?」
半分投げやりな口調になる。
「え? 何処って…」
訊かれて再び答えに困った。勉強を教えてもらって、気づけば何時の間にか好きになっていた。初めははっきりとした理由があったのだろうが、今改めて訊かれると、それも思い出せない。だが好きという気持ちは確かなものだった。
「それは…優しいし、落ち着いてて大人だし…。他にも沢山あるけど、上手く言えないよ」
「ふーん」
何処かで聞いた事あるような、在り来たりな事を言うな…。女は皆そんなのが良いのかな…?
「そういうのがタイプなんだ?」
「べ、別に、タイプってわけじゃないけど、ただ好きになった人がそういう人だったってだけよ」
耳を赤く染めながら俯いた。なんだか悠に知られたくない秘密を話した気がして、顔が上げられなかった。
そんな好きな人の話をして恥ずかしがっている理奈を見て、悠は不思議な感覚に捉われた。思えば今迄二人で恋愛話なんて滅多にしなかったし、(先日、恋愛経歴を問い質されたのは、悠にとっては恋愛話には程遠い、尋問みたいなものだ。)こんな理奈の顔を見るのは初めてだ。悠の心の何処かに閑散とした感情が芽生える。
「理奈も案外普通だな」
「えっ?」
悠はベンチから立ち上がり、両手を腰に当てる。理奈はその姿を仰いだ。
「どういう意味?」
「別に。ただ、他の女と変わらないって事」
少々、意地悪な笑みを含み理奈を見下ろす。その言葉の口調に理奈は不愉快に感じ、念わず感情的になった。
「何、それどういう意味? 普通だよ。みんなだって普通でしょ」
立ち上がって悠に迫り寄る。
「別に意味なんて無いよ。ただそう思っただけ。どっちみち悩みは早く片付けた方がいいよ。理奈が暗い顔してるとそれが伝わって、こっちまでジメっとしちゃうから嫌なんだよ。じゃあな」
言って、悠は大きな荷物を右肩に担ぎ、左手を理奈に向けて広げた。
「え? 行っちゃうの? 散歩に付き合ってくれるんじゃなかったの?」
「ごめん、オレも忙しいんだ。ほら、怪我人が待ってるから薬局行かなきゃ」
悠は素っ気無く言って去って行った。
「なによ…。冷たいな」
悠が帰ってしまったので急につまらなくなって、理奈も散歩を中止して家へと戻る事にした。