愛も罪も
2
a2にベッドを譲っている悠は、来客用の布団をベッドと並べて床に敷き、そこで毎晩就寝していた。
今夜は早々と布団に入り、背中を向けている悠の姿を、a2は怪訝に見つめていた。何時もならa2の体調を気にしたり、雑談をしながら親眤を計るが、今日は学校から戻って来るなり殻に閉じ籠り、a2の存在を忘れているかの様だった。悠が何を考えていようが詮索するつもりは無かったが、こうもあからさまに態度に出されると、a2も不愉快に感じる。悩み相談に載るつもりは毛頭ないが、知悉しておこうと考えた。
「おい、何を考えてる?」
暗闇にa2の声が響き、少し間を置いてから、悠は体を捻って仰向けになった。
青白い天井を見つめていると、そこがスクリーンにでもなった様に、悠の脳裏にあった理奈との抱擁の場面を鮮明に映し出した。それを掻き消そうと目を瞑ってみても、頭の中にある映像は当然消える筈が無い。それどころか、思い返す事によって悠の心臓は大きく脈打ち、次第に音を増して行った。
「……どうしてあんな事をしたのか…、ずっと考えてたんだ。あの時…自分でも理解出来ない。深く考えてなかった。ただ、無性に抱き締めたくなったんだ」
自分の気持ちを整理出来ないでいる悠は、それを上手く説明する事が出来ない。悠の話から状況を掴むのは困難だったが、それでもその中のある言葉にa2は反応し、悠に質問した。
「誰を抱き締めた?」
「幼馴染…」
「そうか」
それだけ訊くと全てを把握し、a2は黙って目を閉じた。
その幼馴染が誰なのか、悠が名前を出さなくても直ぐに察しが付いた。
悠の言葉からするとこれは恋の悩みであり、だが本人はそれらが恋心から出た行動だという事に気づいていない様だ。今迄幼馴染として接してきた理奈と、自分でも気付かない所で、理奈に対する愛情が積漸していたのだろう。それが何かを切っ掛けに弾けて、遂に理奈を抱き締めた。a2はそう考えた。
事況が判明し、その事に対して既にa2の興味は失せていた。だが、それとは逆に膨れ上がった想いを打ち明ける事で気が緩んだ悠は、堰き止めていた水を開放するかの様に、溢れてくる想いをa2へとぶつけて聞かせた。
「…そいつには好きな奴がいて、その男の事が頭の中から離れないんだってさ。苦しいみたい。小さい頃から何時も一緒にいたけど、あいつのあんな顔を見たのは初めてだったよ。なんて説明したらいいのか判んないけど、そんなあいつの顔を見てたら胸がムカついてきて、気がついたら…息が出来なくなる程、強く抱き締めてた。そうする事で落ち着くっていうか…。暫くそのままでいたかったんだけど、向こうの体がピクッて動いて、困ってるのが判ったから、それで腕を解いたんだ…。そしたら妙に体が寒くてなんだか寂しかった…」
悠は天井を見つめ、その時の感触を思い出しながら切々と話している。天井に反射している月明かりが、悠の眼に映り、その瞳が淡い光に輝いていた。
「普段喧嘩ばっかしてるのに、急にそんな事して自分でも説明できないし、顔を見れなくて、そのまま帰って来たんだ…。こういうのって何だろうね…? 住田さん、判る?」
「さぁ」
静かに目を閉じて聞いていたa2は、悠のその気持ちが何なのか、敢えて答えなかった。
「………」
そっか、住田さんにも判んないんじゃ、仕方ないよな…。
冷静沈着なa2になら、この感情が何なのか答えを知っているのではないかと期待したが、自分より年上の者にもこの正体が判らないのならば、自分が判らなくてもおかしくはないと感じ、湧き立つ感情を宥めた。
今回、悠に世話になる事になり、a2は偽名を使用していた。『a2』という風変わりな名を告げる事により、身の上を詮索される事を予測し、偽名を使う事によって余計な説明を省けるからだ。それで前回の選択者の名前、住田要を名乗り、自分の名を伏せていた。悠はそれを疑わず、親しみを込めて『住田さん』と呼んでいる。
「あっ、そうか。あれかも!」
不意に手を鳴らし、悠が明るい声を出す。
「ほら、娘を嫁に出す父親の気持ち? …ていうか、仲の良い友達に彼女が出来て、急に寂しくなったりとか…。それともあれかな、お気に入りの玩具を人に取られて腹を立ててる感じかな? そういうのに似てるのかもしれない」
悠の言葉に嘲てa2は唇を歪めた。
理奈に対する想いは、疎外感や独占欲などでは無い。自分以外の者に想いを寄せている事への、明らかな嫉妬なのだ。だが、悠が己の気持ちに気づかない限り、この感情が嫉妬である事にも気づかないであろう。
それにしても、嫁だったり、男友達や玩具だったり、あまりにも比喩の仕方が理奈を異性として意識していない。悠が自分の気持ちに気づくのは、まだかなり時間を必要とする事だろう。
「何れ答えは出る」
少し呆れた音を含みながらa2は答えた。
「そうだね…」
a2に宥められ、悠の眼に沈んだ曇りが広がる。
「住田さんは自分をコントロール出来なくなった事がある?」
「ない」
a2はあっさりと短くはっきりとした口調で断言した。
「そっか。オレやっぱ情緒不安定なのかな。自分で自分の気持ちが判らないなんて、おかしいのかな?」
「考え過ぎなんだ。簡単だ。余計な事に干渉するから自分を見失う。不必要な事は考えるな。自分に課せられた事だけを考え、余計な感情を持たぬ事だ。そうすれば楽に生きられる」
発したa2の声には何の感情も無く、言葉通りに淡々としていた。
そんなa2の言葉に驚き、悠は身を起こしてa2の顔を見た。
「えーっ? そんなの無理でしょ。感情を持たないなんて、そっちの方が難しいよ」
悠の言葉にa2は僅かに眉根を寄せる。感情を持たぬ事が難しいとは、そんな簡単な事が出来ないのは、育った環境の違いだろうか…。ある意味恵まれているのかもしれない。a2の唇が皮肉を含み口角を上げる。
「その悩みは君が幸せな証拠だ。お喋りはもうこのくらいにしよう」
「…うん」
言葉の意味がよく理解出来なかったが、a2が目を逸らしたので、それ以上は悠も深く追及しなかった。
部屋は静まり返り悠は目を瞑る。まだ痼りの様に答えの出せぬ想いが、頭の中に引っ掛かってはいたが、時計の秒針が眠りを誘い、軈て深い眠りへと落ちて行った。