愛も罪も
第13章 沈溺の賽



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「え?」

 悠は朝の身支度を済ませ、机の上で学生鞄に教科書を詰め込んでいる所だった。

 a2の無謀な言葉に驚き、動かしていた手を止めて、ベッドへと視線を向けた。a2は上半身を起こし平然としてベッドに凭れている。

「もう熱もない、平気だ」

 腹部の上に両手を置き、視線を下ろし涼し気な顔をしている。今日ここを出て行くという。だが、その胸部にはコルセットを装着しており、動く度に痛みが走り、苦痛に顔を歪めている事を悠は知っている。そんな体で帰してもいいものか、素直に別れの言葉を交わす気にはなれなかった。

「そんな体で無理だよ」

「鎮痛剤を所持している。大丈夫だ」

「まだ完全じゃないじゃん。無理しない方がいいよ。それに病院にも行った方がいいと思うし」

「判ってる。心配無い。世話になったな」

 引き止める悠を真っ直ぐに見つめる。その眼にはもうここを出て行く事を決意している光が、はっきりと浮かび上がっていた。それでa2の意思の強さが悠にも伝わり、ここに引き止める事は出来そうもないと感じた。

「そっか…。なんだか寂しくなるね。せっかく知り合えたのに残念」

 悠は再び、力無くその手を動かし始めた。

 a2がこの部屋に来てから四日目の朝を迎えていた。その間コミニュケーションを計ろうと接してきたが、a2は多くを語ろうとはしなかった。この数日間で知っている事といえば、名前が住田要という事、胸部と右手の指を怪我している事くらいだった。

 自分の事は何も話さず、こちらから訊こうとすれば、これ以上詮索するなとばかりに威圧した空気を漂わし心を閉ざす。その美しく澄んだ瞳を冷淡な光に塗り替えた。きっと他人には言えない何かを抱えているのだろうと察して、悠もそれ以上踏み込んだ会話をする事が出来なかった。

 それでもこれで別れるとなると寂しさを感じる。それでこれからも連絡を取って、たまに会えないだろうかと考えた。

「LINEの交換しない?」

 思いもよらぬその言葉にa2は驚き、彼の顔を見据えた。

「断る」

 言葉と共に顔を背け俯く。サラサラとした髪が顔を覆いa2の表情を隠した。

「どうして?」

 その言葉に不服を抱き、悠はベッドの横へと跪き、a2の顔を見据えた。

「無駄だ。私の事など直ぐに忘れる」

 a2は悠にたじろぎもせず、視線を伏せたまま合わせようとはしない。

「そんな事ないよ! 4日も同じ部屋で過ごしたんだ。そんな簡単に忘れるわけ無いじゃない。それに住田さんの体の事も気になるし。別に恩を着せるわけじゃ無いけど、オレにだって怪我の経過を知る権利はあると思うよ。たまに会って話すくらい良いだろ?」

 悠はa2の脚に手を置き、その手に力を込めた。

「………」

 悠の顔を直視する事は出来ないが、その強い口調と注がれる眼差しから、悠の思いがa2にも伝わった。


 どうせ記憶を失うならば、結果としては同じ事…。


 しつこい悠に屈してそう考え直すと、ここは軽く受け流す事とした。

「判った」

 a2が承諾すると、悠はスマートフォンを持ったが、a2は携帯電話を持っていないと言ったので紙とペンを差し出した。そしてお互いの連絡先を交換した。 そこにはa2のパソコンのアドレスが書いてあった。

「メールするよ」

 悠は屈託のない笑顔を向けた。

 そして時間を気にすると、鞄を持ってドアへと歩み寄り、ノブを掴むとa2に向き直る。

「もう時間が無いから行くけど、住田さんはゆっくりしてっていいから。ちゃんと病院に行ってね。じゃあ、元気でね!」

 明るく言って手を振り部屋を出て行った。

 何も疑わず真っ直ぐな視線で自分の体を心配してくれる悠に、少し後ろめたさを感じた。

 a2は心の中に小さな感情が芽生えている事に気づく。だがその感情はa2にとって邪魔な感情であり、この先の事を考えると認める訳にはいかなかった。それで平常心を保つ為、その感情を直ぐに掻き消した。

「…直ぐに去るべきだった」

 俯くa2の眼差しには重く沈んだ鈍い光が漂っていた。



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