風薫る
どうしたの黒瀬君。

私はちゃんとずっと隣にいたはずなんだけれど、もしかして気づかないうちにどこか打ったのかな。

可愛いだなんて、いつもは言わないのに。


信じられない事態に百面相を繰り広げていたら、信じてないよねえ、と黒瀬君が呟いた。


「何ならもう一度言おうか、木戸さんはか」

「ごめん私が間違ってたみたい!」


ごめんごめん、と、全力で拒否する。


手をぶんぶん振って、飛び退いて、後退して、必死に目をつぶった。


これ以上何か黒瀬君に言われたら、私の心臓がもたない。


心外だ、とか言わせてよ、とか何とか聞こえた気がしないでもないけれど、言ったら駄目だよ。


そう、なんだけれど。言ったら駄目なんだけれど。


某猿のごとく固く耳を塞ぎ、目を閉じ、口を結ぶ私の手にそっと自分の手を添えた黒瀬君が、彼の右手ごと引いてしまった。


これじゃあ耳を塞げない。待って待って、わああ待って……!


「……そんなところも可愛いよ、木戸さん」

「っ!」


声にならない悲鳴が出た。


どうしたんだろう。黒瀬君はこの頃、やたらと甘ったるい。
< 117 / 281 >

この作品をシェア

pagetop