風薫る
「黒瀬君……!」


慌てて振り向くと、真っ青な顔をした黒瀬君がいた。


「……木戸、さん」

「うん」


ふいに伸ばされた手に、腕を取られて。がたんと音を立てて椅子から立ち上がった黒瀬君に、ぎゅう、と抱き締められていた。


綺麗にアイロンがかけられた真っ白なワイシャツに、鼻が当たる。


始めは勢いよく、それでも、私が痛くないようにだろう、触れる直前に緩んだ勢い。

背中に回った手は組まれて、力を込めすぎないようにだろうか、広い肩ばかりが強張って。


ぶつかる黒瀬君の胸と私のおでこ。私の肩にそっとのった黒髪の、その長さ。混じる髪。湿った呼吸。熱い吐息。


こんなときでさえ、穏やかで優しい黒瀬君は、紛れもなく黒瀬君だった。


ただそれだけのことに、無性に泣きたくなる。


ああ。ああ。私、黒瀬君が好きだ。


「木戸さん」

「うん」

「木戸さん、」


泣きそうな声だった。


見えないけれど、もしかしたら泣いているのかもしれない。

顔を上げようとしてうまく上げられなくて、頭を押しつけたまま、そうっと呼びかける。


「黒瀬君」


くぐもった私の声も、湿っぽかった。


「うん」


小さな相槌。


「勝手に割り込んでごめんね」

「ううん、ありがとう。ごめん。助かった」

「そっか」


それならよかった、と言おうとして、口にしていいものか分からなくて、結局唇を引き結ぶ。


これ以上を声に出したら、あの美しい女の子への、長野さんへのいろいろが溢れてしまいそうだった。
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