だから俺様は恋を歌う

「なっ……あ……うわぁ……」

 静かに漫画を読んでいたため、それから長いこと北大路の存在を忘れていた。忘れて、作業に没頭していたから、突然彼が変な声をあげたことにその場にいた全員が驚いた。

「どうしたの? ……って、それ……」
「あちゃあ……」

 駆け寄った部長が、北大路が取り落とした本に目をやった。そして、顔を青くして絶句した。それに気づいてサナも、北大路に同情の視線を送っていた。
 北大路が叫んで落っことした本は、某自転車漫画の同人誌――いわゆる“薄い本”だった。OBの先輩が今年のイベントに出していたものを一冊いただいたものだ。サナは好きなカップリングではなかったらしいし、私も特に萌えなかったから、部室に置いていたのだ。
 内容は、BL……しかもかなりハードなものだったと記憶している。それを全く免疫のない北大路が読んだとしたら、今みたいな反応になったとしても仕方がないかもしれない。
 だからちょっと、可哀想かなとは思う。

「これ……お、お……」
「そう。男同士の恋愛。というより情事」
「じょ、じょ……情事とか言うな! ……うぅ……」

 北大路は、顔を両手で覆って震えていた。指の隙間から見える頬は真っ赤だ。どうやら、羞恥に震えているらしい。
 よく見れば表紙に『成人向け』と書いているのだけれど、イラストが綺麗で健全な感じだったからうっかり手に取ってしまったんだろう。

「免疫ないとびっくりしちゃうよね。……大丈夫?」

 労わる部長の言葉にコクコクと頷いてはいるけれど、それでも北大路は顔を隠したままだ。まるで乙女のような反応だ。

「北大路……もしかしてあんた、童貞?」
「ふぁっ⁉︎ お前、女子のくせになんて言葉を使うんだ!」
「ああ、その反応を見る限り間違いなく童貞だね」
「なっ……」

 北大路の反応があまりにも初心(うぶ)で、もしや……と思って指摘するとどうやらその通りだったらしい。赤くしていた顔をさらに赤くさせ、北大路は今度は私に説教をはじめた。

「そんな言葉を使うべきじゃない! 経験がないと言え、経験がないと!」
「まぁ、でもつまりそれって童貞ってことよね? 俺様ナルシスト、なのに童貞って……ギャクじゃん?」
「う、うるさい! まだ『この人だ!』と思う女性に出会ってないだけだ!」
「ふーん」

 北大路は涙目になってプルプルと震えていた。サナが「それ以上言ったらセクハラだよ。可哀想だよ」とフォローを入れたけれど、その言葉にもどうやら傷ついたらしい。

「な、何なんだよ、ここ」

 北大路は怒っているのか傷ついているのかわからない口調で、とにかくプルプルとしていた。怒れるチワワのような震えっぷりだ。

「漫研部だって言ってるでしょ」
「知ってるよ!」
「まぁ、慣れない人には異世界だよね。僕もよく配慮しておけばよかった。この部屋の本棚には危険な本……さっきみたいな禁書・悪書レベルのものがあるから、迂闊に手を触れちゃダメだよ」

 荒ぶっていた北大路は、優しく部長になだめられ、へなへなと椅子に座り込んだ。
 異世界(漫研部)へとやってきたイケメン(北大路)は、そこで禁書を手にして最強の力を得た……わけではなく、扉の向こうに垣間見た知らない世界に打ちひしがれ震えていた。

「……今日は、もう帰る」

 しばらくしてショックから少し立ち直ったらしい北大路は、そのままふらふらと部室を出て行った。

「いつでもおいで、キンヤくん」
「キンヤくん、またね」

 部長とサナはそう言って北大路を見送った。私は「二度と来ないで」と心の中で呟いた。

「ところで……キンヤって」
「そう、北大路だからキンヤ。いいよね。単純明快わかりやすい」

 部長は自分でつけたあだ名にご満悦だ。サナもナチュラルに呼んでいるし、たぶんこれはもう本決まりになりそうだ。
 私のメーさんという呼び名も、部長がつけた。姫川さんも姫ちゃんも嫌だと言ったら、「なら、メーさんだ。下の名前が楓だからメープルのメーさん」と言い出したのだ。
 姫川楓なんて、字面だけで見たら美少女を連想するような名前が、ずっと私は嫌いだった。名前で勝手に期待してがっかりされるという経験を、嫌というほどしてきたから。絶対に、将来は田中か鈴木あたりの苗字の人と結婚すると決めている。
 でも、メーさんという名前にちなんだあだ名はすごく気に入っていた。
 だから、そのときは部長の名づけのセンスを良いなと思ったのだけれど……

「キンヤって……」
「“ないな”っていうのが逆に“あり”なんだよ」
「まあ、そうですね」

 声も姿も渋いあの大物俳優さんと北大路は全く結びつかない。けれどそれを考えた上での名づけなら、何だか良い気がしてきてしまった。

「キンヤくん、また遊びに来てくれるかな」
「どうでしょう? 私はもう嫌なんですけど」
「えー。でも、もっといろんなポーズとってもらいたいな! 家から色々小道具持ってこようかな……」

 部長とサナは、北大路のことを気に入ったらしい。確かにポーズを取らせれば絵になるだろうし、いじれば面白い。それでも、私はこれ以上あいつに関わりたくないなと思っていた。
 あいつの、こちらの話を一切聞かずにしつこくしてくるのが嫌なのだ。しかも、それをさも良いことをしてやっている風に「喜べ」という姿勢でいるのも。
 まあ、そう思ってもきっと明日になったらまたケロリとしてしつこく声をかけてくるのだろう。そして部長やサナが心配しなくても、漫研の部室までついてくるに違いない。
 それにきっと、夜にでもまたしつこくメッセージを送ってくるだろう。もしかしたら、さっき読んだ同人誌の苦情を言ってくるかもしれない。
 私は、そんなふうにあきらめたみたいに思っていた。でも……


 次の日、北大路は学校を休んだ。
 担任の話だと発熱らしいけれど、「知恵熱じゃないの?」というのがサナの見解で、部長は「きっと腐海の毒にあてられたんだよ」と言っていた。そんなに、初めて目にするBLは衝撃的だったのだろうか。
 真実はわからないけれど、そのおかげで私は一日だけ心静かに過ごすことができたのだった。
< 4 / 33 >

この作品をシェア

pagetop