彼がメガネを外したら…。
「今度、国立の古文書館の中世史の方に空きができたらしくてね。君のことを推薦しておいたんだ。それで、君の実力を見たいから、もちろん君の論文も出してほしいんだけど、この秋の学会で発表したらどうかと言ってきてるんだよ」
「いえ、せっかくですけど私は……」
そんなやりとりが聞こえてきて、絵里花は息を呑んだ。
国立の古文書館ならば、歴史研究をするうえでこの上ない場所だ。この史料館のように、自分の分野外の仕事に煩わされることなく、研究に専念できる。それは史明にとって、またとないチャンスに違いなかった。
「……どうして、国立の古文書館の話、断ったりしたんですか?」
作業の途中で、どうしても気になってしまった絵里花は、思い切って史明に尋ねてみる。
史明は不意を突かれたように顔をあげた。そして、普段は見せない不安定な感情をその表情ににじませて言いよどみ、ようやく口を開いた。
「……学会はダメなんだ。大勢の前でプレゼンなんて、アガってしまって、手は震えるし喋ることさえままならない。失敗することは、目に見えてるよ」
それは、研究者としての史明のコンプレックスでもあり、切実な問題でもあった。