水鏡の月
凛音は電車を乗り継いで、自分の家に戻ってきた。

「…ただいま…。」

小さい声で言い、あまり物音を立てずに入る。

玄関に立って鍵を閉める。
凛音が廊下を見るとリビングから明かりが漏れていた。

「え、何で…」

凛音は忍び足で明かりの漏れているリビングに近づく。

すると、声が聞こえた。

「…あの子はどこに行ったの?」

母親の泣き声が聞こえる。

「大丈夫だよ、きっと帰ってくるさ」

隣りでは凛音が気に食わない男が、母親を慰めていた。

「あの子がいないと私はっ…」

母親は泣き続ける。
その時、全てが馬鹿馬鹿しくなった。

反抗も家出も…何もかもが…。
それはもう、くだらない事だったように…。

凛音は分からなくなっていた。
自分が何に反抗し、家を出たのか。

決して母親を泣かすためではない。
リビングの出入り口の前に立つが、2人は気づかない。

凛音は大きく息を吸って叫んだ。

「ただいまっ!!」

凛音の声に母親はゆっくりと顔を上げ、男は勢い良く振り返った。

母親が立ち上がり、凛音に近づく。

「この馬鹿っ」

凛音は打たれる覚悟で歯を食いしばり、目をぎゅっと瞑る。

しかし、一向に痛みは感じない。
凛音はそっと目を開けると、母親はぷるぷる震えていた。

「…母様?」

凛音がそう呼びかけると、母親は凛音に抱きつく。

「全く、どこ行ってたの?私を1人にしないって言ったのに…っ」

母親は安心したのか、震えも涙も止まっていた。

凛音は母親の優しさに今は甘えることにした。

「…ごめんなさい、母様」

そんな親子を男は睨みつけていた。
正確には凛音を…。

暫く母親と抱き合っていた凛音は、母親を剥がして、

「今日は、話をしに来たの…、聞いてくれる?母様」

母親の顔を見て言う。
母親は凛音の真剣な表情を見て、凛音をソファーに促す。

「今、お茶を入れるわね」

そう言って母親は流しの前に立つ。
母親の声は弾んでいた。

凛音は荷物をソファーの横に置いて、男の向かい側に座った。

「…おかえり、凛音ちゃん」

その声は物凄く低く、怒気が入っているように思えた。

「…」

凛音は話したくないのか黙りをきめる。

「はい、お茶」

睨み合いをしてる2人の間に、のほほんとした母親がお茶の入った湯呑みを置く。

「ありがとう母様」

凛音はお茶を1口すする。
口の中の渇きを潤すとごくりと飲み込んで話す。

「母様、やっぱり…僕、料亭やりたいっ…!父様が亡くなってから僕と母様でやってきたから。…あの厨房に家族じゃない人をっ…、父様以外の男を入れたくない!!」

凛音は興奮を抑えるように何度も深呼吸をする。

「女の僕と母様だと限界があるのは分かってる。それに、時々見えた腕の痣、この人のせいでしょ?」

凛音は男を指差す。

「こんなクソ野郎のせいで母様が傷ついてるのは見ていられないの!!」

凛音はまた1口、お茶をゆっくりと飲んだ。
母親もまた、お茶を1口飲む。

「…凛音、あなたを楽にするつもりがあなたを…ましてや、傷つけるなんて…っ」

母親はまた涙を流す。

「母親失格ね、ごめんね凛音っ…」

母親は俯く。
すると、凛音からも我慢していた涙が次から次へと流れた。

「母様は失格なんかじゃない!僕をここまで育ててくれたっ…最っ高の自慢の母様だよ」

凛音は首を横に振って笑って見せる。
その表情はどことなく、その母親に似ていた。

母親は涙を拭い、

「分かったわ、凛音。…あなた、私と別れて。私はもう間違った選択はしない!あなたがいて、凛音が傷つくき、苦しむなら私は、それを捨てる。」

母親は向かい側のソファーに行き、凛音の隣りに立つ。

「…だって私の幸せは凛音そのものだから!今すぐ出てって、私と凛音を傷つけるあんたはいらない!!」

母親は男に怒鳴りつけ、凛音に抱きつく。

「慰謝料とかお金はいらないわ。荷物と一緒に、私達の前から立ち去って!」

凛音は物を投げる体勢になった母親を止める。

「母様、もうそのへんで…」

凛音は慌てながら苦笑いを浮かべた。
男はすぐに荷物をまとめ、

「あんたらなんか、不幸になっちまえ」

とまるで小学生でも言わないと思う捨て台詞を吐いて出ていった。

男が出ていって、母親はドヤ顔を決める。

「どやぁ…!」

久々に母親のお茶目な部分を見た凛音は、笑いが堪えきれず、声を出して笑った。
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