最愛婚―私、すてきな旦那さまに出会いました
* * *


「奥方様なら、それらしくですね…」

「変な呼び方しないでください」

「入籍しているのであれば、もう高塚さんでしょう、履歴書は」

「通名でいいですかって、最初にお聞きしたじゃないですか…」


次原さんが知的な眉間にしわを寄せて、ふーっと乾いた息を吐く。


「夫婦そろって、僕の心労を増やすためにドッキリ大作戦ですか?」

「だから久人さんがここにお勤めだなんて、私も知らなかったんですってば」


役員室の壁一面を埋め尽くす黒いバインダーの背表紙は、一見整然と整理されているように見え、実はそうでもなかった。

片づけられてはいたけれど、整理されてはいなかったのだ。

こんな整ったオフィスじゃ、私の仕事なんてそんなにないのかもと思っていた私は、すぐにそうでもないことを知り、安心した。


「桃、今日は帰っていいよ。その代わり明日、朝からの外出につきあって」


そこに久人さんが打ち合わせから戻ってきた。


「はい」

「次原、桃をいじめたらお前を飛ばすからね」

「できるものならどうぞ。この会社の人事権なんて持ってないでしょ」


ふん、とふたりが冷ややかな視線を交わし合う。聞いたところ同じ大学の先輩後輩で、こういう気安い関係のふたりらしい。

私は時系列も内容もばらばらに綴じられていた契約書類を、ざっと並べ直した状態でバインダーに戻した。作業を再開するときの目印に付箋をつけて、壁のキャビネットに収める。

それから帰り支度を始めた。久人さんが帰れと言うときは、本当に帰ってほしいときなのだ。その分、明日フルパフォーマンスでよろしくね、という意味だ。


「明日は、どんなお役目でしょうか」

「うちの力を借りたいって企業がいてね。そこの役員さんと、顔合わせがてらヒアリング。長い付き合いになると思うから、桃も顔を売って、今後のやりとりの窓口になれるようにしてほしい」

「わかりました」


会社概要などをもらうだろうから、今後も見据えたファイリングをしよう。あれこれ細かな段取りを考えながら、もらったばかりの名刺を名刺入れに移し、バッグに入れる。

次原さんがデスクのほうへ行き、持っていたファイルをぽんと置いた。
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