最愛婚―私、すてきな旦那さまに出会いました
08. 心のかけら
久人さんを追いかけてバーに戻ったら、行き違いになったらしく、彼はもういなかった。ぽつんと残っていた樹生さんが『帰っちゃったよ』と肩をすくめた。
その足で、私もマンションに帰った。
玄関を開けたら、まず目に飛び込んできたのが、脱ぎ捨てられて転がった革靴だった。笑ってしまった。久人さんがこんなことをするのを見たことがない。
書斎のドア下の隙間から、光が漏れている。私はドアをノックした。
「久人さん、入ってもいいですか」
返事がない。
「入りますね」
そっとドアを開けた瞬間、煙たい空気に包まれる。
八畳ほどの書斎は、ゆったりしたデスク、天井までの本棚、そして休憩や仮眠のためのカウチが置いてある。
あまりの煙たさに、思わず顔の前あたりを手であおいだ私は、久人さんがカウチに寝そべり、こちらを見ているのに気がついた。
足を肘掛けに乗せ、頭の下にクッションを入れて、煙草をくわえている。
顔つきは、不機嫌であることを隠そうともしていなかった。
「…私も、座ってもいいですか?」
久人さんは私をじっと見つめ、やがて無言で身体を起こし、私が座れる場所をあけてくれた。
だけど隣に座っても、黙々と煙草を吸うばかりで、なにも話してくれない。
こらえきれず、また笑ってしまった。
それまでむすっとしていた久人さんも、私に横顔を向けたまま、ふっと噴き出した。自分にあきれているみたいに、煙草を持った手を額にあてて、目をそらして苦笑している。
「ごめん」
「なにがです?」
なにか言おうとする様子を見せたものの、彼の口から言葉は出てこなかった。久人さんはちょっと困ったように眉根を寄せ、サイドテーブルのほうへ手を伸ばし、灰皿に煙草を捨てる。