もしも願いが叶うなら、君はなにを願うだろう
願い
願っただけで想いが叶うなら俺は今頃凶悪な犯罪者だ。
例えば、今、俺の机の目の前に立っている桐谷栞。単なるクラスメイトである彼女のことを殺害したのは高校に入ってから通算247回。
けど、勿論彼女は死んでない。俺が何度死を願おうが、幾度頭の中で殺そうが、現実世界では生きてる。
今日もちゃんと息を吸って、息を吐いて、
「ねえ、染谷くん。教えて欲しいところがあるんだけど……。」
息と共に余計な言葉まで吐き出す。
彼女が俺の机の上に差し出すのはさっきまでやっていた生物の授業のノート。白い紙には女の子らしい丸みを帯びた文字が並び、所々にはカラフルに装飾までされてる。
左端には日付が刻まれ、その横では不気味な猫が顔よりも大きい手を振っていた。
チラッと見ただけで、彼女がバカなことがわかる。
まるで転写したかのように黒板を丸写ししただけのノートを見れば、わかりたくなくてもわかってしまう。
ああ、頭痛がする。
ここは仮にも偏差値65オーバーの進学校だ。
俺の記憶が間違っていなければその筈だ。
にも拘らず、いる。
何故だかは知らないけど、存在する。
「……どこ?」
「えっと、ここがわからなくて……。」
「……。」
本来、ここにいるはずのないバカが。
「あと、ここも……。」
超難問と呼ばれる入試を突破する頭脳を持ち合わせた人間しか入れない筈の校舎内に、いる。
7月上旬のこの時期。もうすっかりと衣替えが完遂し、大きな窓の外では青々とした緑が茂っているこの時期に。薄っすらと効きの悪いエアコンのファンの音をかき消すような蝉時雨が聞こえてくるこの時期に。
「いいよ。じゃあまず――…」
「あっ、待って! あの……染谷くんが良ければなんだけど、今じゃなくて放課後でもいいかな……?」
まるで、桜が舞ってるような。
そのくらい可笑しなことだった。
そのくらいあり得ないことだった。
「放課後……?」
「うんっ! 実は他にもわからないとこあるんだよね。」
有り得てはいけないことなのに。
てへへ――と照れ臭そうに笑う彼女に、貼り付けている笑顔が音を立てて固まったような気がした。
「あ、ちゃんと授業は聞いてるんだよ? 」
何故か誇らしげな表情を散らつかせる彼女に、頭痛は加速する。
「でも、あの先生ちょっと、説明わかりにくいよね。」
体の内側で呆れと怒りが入り乱れる。そして、それは殺人衝動の火種となって、俺に襲いかかるのだ。
「けど、染谷くんの説明は分かりやすいから、教えてもらえると助かるなあって!」
通算248回目。
脳内で俺の手が彼女の脳天に大鎌を振り下ろす。
パックリと二つに割れた頭部の中は――、見るまでもない。
空っぽだ。
脳味噌どころか蟹味噌すら入ってないに違いない。すっからかんだ。
いっそ、本当に彼女を殺せたらどんなにいいことだろう。
それが無理でもせめて、うるさいその口をアロンアルファでくっつけられたら、俺の人生は多少生きやすくなるというのに。
「そう? 人に教えるのってあんまり得意じゃないんだけど、役に立ててるなら良かった。」
「いつも助かってるよ。……そうだっ、私の家とかどう? 学校からも近いし。日頃のお礼も込めてお菓子ご馳走する!」
俺は頭の中で彼女のぷっくりとした桃色の唇にグロスを塗るかの如く接着剤を塗り、指で念入りに上唇と下唇を擦り合わせた。
吃驚した彼女は声を上げようとして、直ぐに自分の口が開かないことに気づく。強張る彼女の表情。そして次第に青ざめていく白い肌。
……うん、悪くない。
「いいって、そんな大層なことしてないし気持ちだけ貰っておく。」
「えぇ~! でも―――」
「それに、放課後は予定あって。……ごめんね。」
そんな妄想は俺の心の荒波を沈めていく。幾分か平穏さを取り戻した心には余裕が生まれて、お陰で理不尽な謝罪もすらすらと口から出た。
無駄遣いだと思わないわけでもないけど、それなりに愛想のいい笑みを浮かべて、立っている彼女を見上げる。
そんな俺の視界の上ギリギリのところでは、彼女の唇が不服そうに突き出ていた。
そんな顔をされる謂われはないと思う。思うけど不快に思うほどじゃないのは、わかったからだ。彼女が不服ながらも諦めたことが、その表情から読み取れた。
筈だったのに、
「……明日は?」
「はっ?」
「明日の放課後も予定あるの?」
「……。」
俺はどうやらこのバカ女のバカさ加減を見くびっていたらしい。
「明日もダメなら明後日でもいいよ?」
いつの間に立場をすり替えたのか、妙に上から目線で宣うバカ女。
「まさか、毎日予定があるってわけじゃないよね?」
迷惑がられてるとは微塵も勘付かない鈍感さには最早関心すらする。
「でも明後日の生物の授業までには時間とって貰えると……、ほら、わからないままだとどんどん付いて行けなくなるし。」
どんどんもクソもない。あんな猿でもわかるような内容すら理解できてない時点で十分に落ちこぼれてる。勉強において一番基礎となる理解力ってもんが備わってない。
というか、この女は授業の受け方がそもそも間違ってる。板書っていうのは補助であって、あくまでメインは先生の話だ。
けど、この女のノートには潔いほど黒板に書かれことだけ。文章化されてないキーワードの羅列と単体では意味不明な図。こんなものテスト前に読み返したところで意味がわからなくなるだけだ。
つまりこの女は理解力に乏しい上に要領も悪い。典型的なバカだ。諦めろ、と言いたい。お前には勉強は向いてない。
挙句、自分で努力することすらしない。授業内容は全て教科書に載ってる。それこそ猿でもわかるよう、懇切丁寧に優しい日本語で。それを読めばいい。話はそれからだ。人に頼るのは自分で出来ることを全てやってからで遅くない。
俺はそう思う。
少なくとも俺ならそうする。
けど、
「お願いっ!」
人に頼むことしか能のないバカ女にそんなことを期待するだけ無駄だ。
両手を合わせ、指先を額につけながら小さく頭を下げる彼女に、俺は出来る限りの優しい声を出す。
「ごめんね、本当に忙しいんだ。悪いんだけど、他当たってくれるかな?」
心の中で思ってることはさておき、外面だけ見れば俺に非は一切ない。悪くない対応だと思う。
間違っても、
「……こんなに頼んでるのに駄目なの?」
謝られはしても非難される筋合いはない。
「……ごめんね。」
口元がヒクつく。一度は治ったはずの苛々がまたぶり返してきた。
「もう、いいよっ!」
フンッ――、と鼻を鳴らし、机からノートを掻っ攫うようにして、彼女はさっさと踵を返し背を向ける。
俺は彼女の視界から完全に自分が排除されたことを確認してから無理して吊り上げていた口角を所定の位置に戻し、すかさず架空のナイフを投げ付ける。
颯爽と空気を切りながら、床と平行に飛ぶナイフはそのまま彼女の背中の丁度ど真ん中に突き刺さった。
通算279回目。
けど、彼女はまだ死なない。