秘書と野獣
プロローグ
それは一夜の夢だった。
今でも鮮明に思い出す。
「は、ぁっ…」
まるで壊れ物を扱うかのように優しく触れる手。
彫刻を思わせるような筋肉を纏った美しい体躯。
時折悩ましげに出される吐息までが艶めいていて、ポタリと頬に落ちてきた汗にすら目眩を起こしそうだった。
けれどその目は燃えるような炎を宿していて。
触れる手が、唇が。
全てがこれでもかと私を甘く溶かしていったのに、あなたのその目は狙った獲物を決して逃さない獰猛な野獣のようで。
…そう。
まるでずっと自分が求められていたのではないかと錯覚するほどに。
「あっ、あぁーーーっ…!」
大きな背中にただただ必死にしがみついているうちに、気が付けば目の前が真っ白になっていた。真っ逆さまに落ちていくような感覚にさらに必死にしがみつくよりも先に、大きな両手が体ごと強く強く包み込んでくれた。
その火傷しそうなほど熱い体に、絶対に離さないと言われているかのような手に、自分がちゃんと女だったのだと実感できて目頭が熱くなった。
…けれど、それ以上に鋭い痛みが私の心を深く抉った。
もうこれ以上の幸せなどない。
たとえたった一夜の幻なのだとしても、私は世界一幸せだったと言える。
…ただ一つだけ。
叶わないとわかっていても夢を見てしまう。
一度だけでいいから、あなたの唇が私の名を紡ぎ出すことを。
たった一度だけでいい。
たった一度だけ、私の名を呼んで_____
< 1 / 266 >