秘書と野獣
顎って本当に外れるのかな。
そんなバカなことを考えてしまうくらい、私の思考回路はショートしてしまった。パクパクと言葉にならない言葉を繰り返す私に苦笑いしながら、野上君は包み込んだ私の手をあらためて強く握りしめた。
それはまるで決意表明のように。
「あなたにとってはいきなりで驚くのも無理はありません。でもずっとあなたを想っていたことは紛れもない事実です。プロポーズだって。社長にばれずに辞めたいというのならば、できる限りの協力はするつもりです。…ただ、あの社長相手にどこまで誤魔化せるか自信はありませんけど……って、聞こえてます?」
「……聞こえて、ます…」
辛うじて。
「そういうことですから。引き継ぎ等仕事のことは任せてください。その代わり華さんも俺のことを真剣に考えてくださいね。それじゃあ先に戻ってますから」
「…は、い…」
尚も呆然とする私にクスッと笑うと、野上君は伝票を片手に立ち上がった。
「…あっ、お金っ!!」
ようやくハッと我に返ったときには既に彼の姿は通りの向こうへと消えていた。相変わらずスマートな身のこなしに感心すると共に、今起こったことが理解できずに頭の中は大混乱を極めていた。
「…ぷ、プロポーズ…? …誰が、誰に…?」
そもそもなんでこんなことになったんだっけ?
私はただ社長にばれないように仕事を辞めたいから、もう一人の秘書であり後輩でもある野上君に何とか協力してもらえないかって頭を下げて…。
そうしたら…
「う、うそでしょおっ…?!」
まさかまさかの展開に大パニック。
今の私の頭の中はいかにばれずにあの野獣社長の目をかいくぐって辞めるか、それだけだったというのに。こんな、よもや1ミリほども想定していない展開で脳内をかき混ぜられることになろうとは。
「う、うごぉーーーーーっ!!!!」
わっしゃわっしゃと頭を抱えて突っ伏してしまった挙動不審な女に、周囲の客が再びチラリと目線を送った後、サーッと引いていくように方向を変えていたことに、当の本人が気付くはずもなかった。