秘書と野獣
「…悪ぃ。寝ぼけてただけだからそんなに怒るなよ」
さすがに不穏な空気を感じたのか、ガシガシとバツが悪そうに頭を掻きながら社長が体を起こした。しゅんとしたその姿は母性本能をこれでもかとくすぐり、つくづく私はこの人に弱いのだと痛感させられる。
腹が立ったのも本音だけれど、勝手に意識して勝手に怒っているのは私だ。
ふぅっと小さく一息つくと、気持ちを入れ替えるようにシャキッと立ち上がった。社長はそんな私のご機嫌を伺うように情けない顔でこちらを見上げている。これぞワンコ攻撃の真骨頂と言わんばかりに。
「もういいですよ。こんなことにはすっかり慣れましたから。でももうこれで最後ですからね?」
「…え?」
「当たり前じゃないですか。だって結婚されるんですよね? いくら相手が私だからって、生物学上女と分類されている私にこんなことをするのは未来の奥様に失礼なことです。だからこうして社長の疲れを癒す行為も今ので最後ですよ」
一瞬驚いた表情はみるみる不満げなものへと変わっていく。
きっと私の反抗的な態度が面白くないのだろう。
「そんな不満そうにしないでくださいよ。だってこれからは奥様がいらっしゃるんですから。帰ったらこれでもかって癒してもらえるんですから、たくさん甘えてくださいね」
「 …… 」
尚も不服そうな表情を隠そうともしない社長に苦笑する。
けれど、これはとても大事なことだ。
社長が本気になったからこそ、どんな形であれその相手に対して誠実であって欲しいと思うから。
「じゃあその書類の確認をお願いしますね。私は戻って次の仕事してますから」
何か口を開こうとしたのがわかったけれど、私は敢えてそれに気付かないフリをして足早に社長室を後にした。
バタンと音をたてて閉まった扉が私達の境界線。
どうやっても、ここを越境していくことは許されない。
本当に、彼に触れるのもこれが最後。
____ 私は明日、彼の元を去っていく身なのだから。