秘書と野獣
空耳、だと思った。
「………………………え?」
だから、たった一言を発するのにとてつもない時間がかかってしまった。
言われた言葉の意味がわからない。
いや、単純な言葉の意味ならわかる。でもそうじゃなくて、彼の言わんとすることがわからない。それが露骨に顔に出てしまっていたのだろう。社長は苦笑いすると、扉から背を離して姿勢を正した。その姿はモデル顔負けだ。
「この俺にも結婚したいと思える女がようやく見つかった。だから近いうちに結婚する」
「______」
全てが真っ白になって一言ですら発することができない。
全身からスーッと血の気が引いていき、指先はカタカタと小さく震え始めた。
白んだはずの視界は一転、何も見えないほどに真っ暗に暗転していく。
…けれど。
「…おめでとうございます。ようやくですか。いやぁ、長かったですね!」
長年培ってきた仮面はこんな時ですらその力を発揮する。
…違う。こんな時だからこそ、だ。
「…相手がどんな奴とか聞かないのか?」
「うーん、あの方かな? この方かな? と思い当たる方はいらっしゃいますけど…。いずれにしても社長が本気でそう思えたお相手なら間違いないと信じてますから。何も聞く必要はないかと思います」
「……」
…早く。早く。
何でもいいから一秒でも早くここから立ち去って。
「…そうか。鉄壁の秘書のお前のお墨付きがもらえるなら彼女も喜ぶだろうよ」
「ちょっと、鉄壁ってなんですか?!」
「あれ、違ったか?」
「もうっ、社長っ!!」
「ははっ! じゃあそういうことだから。藤波商事に行ってくるから、それ頼むな」
「お土産忘れないでくださいね!」
「くくっ、りょーかい」
肩で笑いながら手を挙げると、今度こそ社長はその姿を消した。やがて隣室からバタンと音がして完全に身近な空間からいなくなったことを感じる。