秘書と野獣

バーカウンターに並んで強めのお酒を酌み交わす。
端から見ればきっといい雰囲気の男女に見えたに違いない。
いつもの私なら並んでいるだけで不釣り合いだけれど、この日の私は違う。
洗練された大人の彼の隣にいてもほとんど違和感がなかった、と自負している。

それほどに、彼女達がかけてくれた魔法は偉大なものだったから。

オフスタイルの社長を見たことは何度もあるけれど、こうして男と女として向き合ったことは長い付き合いの中でこれが初めてだった。いつもはきちんとセットされた髪は無造作に流してあるだけ。黙っていれば20代と言ってもわからないほどに若々しく見え、そういう意味では彼もまた別人のようだった。


自分の名前や素性を隠すことなく全てさらけ出す社長とは対照的に、私は彼に気付かれないように誤魔化しながら色んな会話をした。
取り立てて話すほどの趣味も特技もない私が相手でも決して会話が途切れることはなく、純粋に、とてもとても楽しかった。

それと同時に、あぁ、彼はこうやって関係を深めていくのかと、世の女性が彼を放っておかないのは当然のことなのだと、あらためて自分との距離を感じて寂しくなった。

「もし差し障りがなければ君の名前を聞いても?」
「えっ?」

ドキッとした。

今でも時々思う。
もし、もしもこの場で私ですと打ち明けていたら…
もしかしたらまた違った未来になっていたのだろうか。



「……………ナ、ナ…。…ナナ、です」



「ナナさんか。綺麗な名前だね」

咄嗟に出た偽名に社長は歯の浮くようなセリフで口説きに掛かる。
ここにいるのが「宇佐美華」だなんて露程も考えずに。


彼が甘い言葉を囁けば囁くほど、私の胸は苦しくなって、目の前が真っ暗になっていった。



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