秘書と野獣
逃げる準備と思わぬ伏兵
「やめる…?」
呆然と言葉を繰り返す男性を前に、私は深く深く頭を下げた。
「急なことで本当にごめんなさい! とんでもない我儘で迷惑をかけることもわかってる。それでも、こんなことを頼めるのは野上君しかいないの。だからどうか…どうかお願いします!!」
「あ…いや、決して責めてるわけじゃないんで顔を上げてください」
「……」
ゆっくりと上げた顔はさぞかし情けないことになっているだろう。野上君の困惑した表情を見ればそんなことは一目瞭然だ。
「華さんがいきなりこんなことを言い出すなんて…一体何があったんですか?」
「……」
「…社長のことですか? もしかして、社長と何か…」
「それは違うから! 社長とは何もないの!」
激しく否定した言葉は自分でも驚くほどに大きな声となって出た。
ランチタイム真っ只中の店内は多くのOLやビジネスマンで溢れかえり、何事かとこちらを振り返る周囲の客に、思わず身を竦めて謝罪の言葉を口にするしかなかった。
「ごめんなさい…」
「…いえ、こちらこそ不躾なことを聞いてしまってすみません。でも本当に何があったんです? あなたから珍しくお願いごとがあるだなんて何事かと思えば、まさか仕事をやめるだなんて…。しかも社長には黙ってやめるとか。直接何かあったんじゃないとしても、社長が無関係ではないですよね?」
「それ、は…」
言葉に詰まって俯いてしまったその姿こそが肯定以外の何ものでもなかった。野上君が頭上でふぅっと大きく息を吐いたのがわかって、ますます肩身が狭くなる。