東の空の金星
会計が終わるまえに
「その話題のクロワッサンを分けてくれないかな。」
と院長がマスターに聞いているけれど、
もう、『茶色い月』は残っていない。

大切なお客様。と言っていたよね。

「今日の分は無くなってしまいましたが、
明日なら店が始まる前にお届けできると思います。
ひとりで焼いているので、10個程度なんですが…」と私が言うと、

「頼んでいいかな。妻に食べさせてやりたいと思ってね。」
と私に微笑んでくれたので、
「朝10時頃お届けに行きます。」と私も微笑みかえした。

ホスピスの場所は最寄駅の裏にあったはずだ。
明日もこのクロワッサンを焼けばいいし、
駅の近くなら、歩いて届けられるだろう…。


玄関の内側に立って、大切なお客様達が靴を履くのを待って見送っていると、
一歩遅れた三島先生が私の横に立って、私の上に屈み込み、

「また来る。」と耳元で囁いた。

思わず、顔が赤くなる。

…なんて事をするんだ。
絶対わざとでしょう。

女の子達が目を丸くして、見てるじゃないか!

私が口を効けずに、
楽しそうな王子の瞳を睨み付けると、

満足そうに笑って玄関を出て行った。

「ありがとうございました。」

と院長先生を見送るマスターの声にハッと気づき、
私も小さな声を出して見送った。

「シマちゃん、顔赤い。
三島先生に何言われたの?」

とマスターが笑って店に戻って行く。

「別に。」

と言いながら、

私は面倒なことになりませんように

と心に念じてみた。
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