メープル
エピローグ 再び神戸
 日本に帰ってくると、神戸の街にも、もう秋の気配が漂い始めていた。日中は、まだまだ暑かったけれども、夜になるとコオロギの声が響き始めており、暑かった夏の日々が夢だったかのように思われた。特に、マウイで過ごした一週間はもう、日々、美しい幻想の如くさくらの心に鮮やかな色の記憶として残り続けた。「でも、夢じゃなかったんだ。本当に良かった。いろいろなことがあの日のために前から決まっていたかのようだったわね」と思ったりした。輪傳堂に戻って、一週間ほどが経ったある日、沢田さんが

「さくらちゃん、やっぱりあんた、ちょっと変わったわー」

と言ってきた。

「そうですか?いつもとおんなじですよ」

「いや、変わったわ。もちろん、最初は、その指輪のせいかなぁと?思ったんやけどな、でも、それだけやないな、あんた」

「自分でも、よくわからないんですよ、そういうの」

「なんていうか、薄皮みたいなのんがな、一皮ぺろって剥けたみたいな、なんかそんな感じゆーたらえーんかな?さくらちゃんのなんてゆーん、そのそのままの中身みたいなのが、前より、そのまま見えるような感じってゆーたらええのん?何ゆーてるか、自分でももう、わからへんわ、でも、そういうなんかなんやね、でも。悪口ゆーてるんやないんやで」

「あ、それはわかります。ふーん、でも、なんなんでしょうね」

「例のあの男とは、うまくいってるみたいで、まあ、何よりなんやけどな。それだけやない、なんかや!?なんやろな?とにかく、よーなったわ、あんた。綺麗になったし、活力も上がった感じするわ。前は、綺麗は綺麗でも、もうちょっと儚い感じの綺麗さやったからな。」

「ありがとうございます。でも、もう、お土産はこないだ渡した分で全部ですよ。」

 確かに、自分でも解るのは、よく笑うようになったし、結構、自分からくだらない冗談も飛ばすようになった。マウイ以前より、生活していく場に対してより積極的に絡んでいけるようになったっていうことはあるような気がしていた。それが無理してるとか、意識して頑張ってるわけではなく、自然にそうなっていった気がしていた。両親も「さくらはマウイがよっぽど楽しかったみたいだね、よかったなぁ」みたいな会話をリビングでしていた。さくらはそれを漏れ聞いたりして、ちょっと嬉しくなったりしていた。

 午後5時の時報が響くと、さくらは

「今日はこれであがりまーす。お疲れ様でしたー」

と言って、女子更衣室に入った。沢田さんの「デートやな、がんばっといでやー」と言っている声が後ろから追いかけてきたが、軽く無視して、私服に着替えると、夕刻の神戸の街へでた。すでに風の匂いに秋の予感がする。雑踏の中、阪急三宮の駅へ心持ち急ぎ足で向かった。駅の改札が見えてくると、その左前で、手持ち無沙汰に佇みながら、iPhone から流れる音楽を携帯用のヘッドホンで聴いているユウジの姿が見えてきた。

「ごめん、遅れた。待った?」

「いや、ちょうど来たとこだよ。」

「今日は、見たい映画があるのよ。先週、封切になったやつ。前に話したでしょ、EDがあたしの好きなアジカンのやつ。」

「そう思って、チケットもう取ってあるよ。」

と言って、ユウジはチケットを二枚、ペラペラっと振って見せた。

「さっすが、ユウジくん。18:30からね。少し、時間あるわね?」

「そう思ってね、そのつなぎの予定も考えてあるんだ。」

「ふふ、そうだと思ったわ。あなたのそういうとこ、もうすっごく大好きよ。」

「さくら、すっごくカラフルに話すようになったよね。もう、惚れ直したよ。たぶん、こっちが本当のもう半分のお前なんだな。俺、こっちのさくらも大好きだよ。」

「うーん、なんだかわかんない。それより早く行こうよ!どっちなの?」

「ああ、こっちだよ。そっちじゃない」

といって、222.5度くらいあさっての方向に勝手に歩き出したさくらの手を引っ張って、正しい方向に向けた後、二人は寄り添うように元町方面に向かって歩き出した。

「さくら、今度さ、もう少し涼しくなったら、お前のご両親にも挨拶に行こうと思うんだ。どうかな?」

「えー歩きながらいうの、それー。でも、うれしいな。わかった、それとなく打診しとく。」

「お父さん、怖そうな人だって、前にいってなかっけ?」

「えーやさしいよ。あたしには、特に。小学校の5年生の時、あたしの上履きを隠したりした男の子の家に怒鳴り込んだりしてね、あんときは、恥ずかしかったなー。あとね、大学の時、コンパで終電逃したら、午前2時半にその居酒屋まで、うちのおっきな車で迎えに来たのよ、もう、恥ずかしくて、恥ずかしくて」

「さくら、あのね、形容詞がまちがっているよ。そういうのは普通、優しいとは言わない。怖いっていうんだ。う~ん、やっぱり、もうちょっと様子見ようかな?」

「ん?根性ないのね?普段は、あたしにはあんなに偉そうなのに。」

「偉そうにはしてないと思ってるんだけどなぁ。」

「うーん、ユウジ、あのね。ちょっと言っておくとね。ユウジは人にものを教える仕事でもあるからなんだろうけど、どうしても話し方が上からっぽくなるのよ。自覚したほうがいいわね。それ、結構、評判良くはならないわよ、普通の人には。」

と言いながら、さくらは自分でもびっくりしていた。人に何かを要求したり、欠点を直すようにお願いしたり、相手を変えるように仕向けたり、または、相手に変わったほうがいいと依頼したり、そういったことを口に出したのは初めてだった。これまでは、そういったことに気が付いたり、不満が脳裏をかすめても、なんとなくそのまま流してしまって、数瞬後には、もう、まったく覚えてもいないって感じで生きてきた気がする。確かに、何かがさくらの中ではじけたのだ。それでそれは、沢田さんも言っていたように、彼女の中の、普段の生活を楽しみながらも、しっかりと生きていく意志のようなものをより明確に意識の外に押し出すようになったからのようだった。そして、そのことにユウジは敏感に気が付いていた。ハワイから戻ってきたとき、ずっと彼女にあった違和感がもう、ほとんどわからないくらいに消えていたのだ。

「なるほどなぁ、こっちのさくらは俺にとっても必要な人だね。あっちのさくらももちろん必要だけどね。その必要の意味が違うんだな、方向っていうかね。角度にして、137.5度くらい方向が違うね。まあ、とにかく、覚悟は決めとく。死んだら、屍はそのまま海に流してくれ」

「了解!骨は拾ってやる。うふふふ、でもね、きっと大丈夫だよ。なんたって、ユウジくんなんだから。」

ユウジは、さくらを少し抱き寄せて、髪に軽くキスした。その後、交差点の右側を指さしながら、

「あ、あそこ、あそこ、あの角を入るんだ。いいとこだよ。」

と言った。そして、二人は寄り添って、その通りを右に折れていった。

 そのすぐ後に、一匹、白黒のブチ猫が生垣から顔を出した。眠そうな目つきでごそごそと通りに出てきて、その交差点の半ばあたりまで歩いてきた。そして、大きく伸びをして、その真ん中に座り込み、おもむろに後足で首のあたりをシャシャシャっと掻いてみせた。しばらくそのままじっとその通りのあらぬ方向を眺めていたが、ふと何か思い出したようにゆっくりと立ち上がり、その通りを彼らが向かったのとはちょうど入れ違いの方角、反対方向に向かってゆっくりと歩いて行った。その後、もと来たのとは逆側の塀にピョンっと飛び乗った。そこで、ちょっと何か躊躇するようなしぐさを見せていたが、塀の内側に何か見つけたのか、そっちのほうへパッと飛び込んでいった。



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