メープル
次の日の午前10時、さくらは上月の研究室に電話を掛けた。
「もしもし、輪傳堂です。昨日来られた件でお伝えしたいことがございまして」
「あー、どうでしたか?」
「ご所望のもののうち、いくつかは一と月ほどで、ご用意できます。残りのものは、もう少し、お時間いただきたいとのことです。」
「どのくらいですかね?」
「大至急で、3か月、とのことです。」
「わかりました。では、最初の一と月の奴は、さくらちゃんとこに発注しますよ。この電話で。残りのは、先生と相談して、もう一回、こちらから電話します。」
上月は、さくらの名前をすでに把握しているようだった。そういえば、事務員の制服には名札が付いているからかな?と思いあたったが、微妙に返事がおかしくなった、
「はぁ、いや、私の会社ってわけでは、ね。いや、えっと、わかりました。ありがとうございます。お電話もお待ちしております。それでは、失礼いたします。」
どぎまぎした感じで電話を切った後、間髪入れず沢田さんが話しかけてきた、
「ほらね、あーゆー男は油断したらあかんよ!何されたんかは知らんけど」
「いえ、別にたいしたことは……」
「ん?それにしては、顔が真っ赤やん?」
「沢田さんが変なこというからですよ。」
といったところで、係長が部屋に入ってきたので、会話はおしまいになった。さくらは、でも、こんな風に感情が動くのは珍しいわね、と自分で自分にちょっと驚いていた。
結局、上月はすべてのものを注文してくれたので、入った順に届けることになった。今日は、最初の配達である。電話で指定された建物まで行って、エレベーターに乗り、5階まで行った。そこで、エレベーターを降りて、白衣を着た学生達がしかつめらしい顔でうろうろしている廊下をパタパタ歩いていくと、“507 上月勇二” という名札を見つけた。軽くノックしてみた。
「はいー?」
「山口です。あの、輪傳堂の」
と会社名を述べると、ガタガタ、バコっみたいな音がして、その後、少ししてからドアが開いた、
「あー、わざわざありがとうございます。」
「いえ、こちらこそありがとうございました。今後とも弊社を……」
といったあたりで、遮るようにぶっきらぼうに
「とりあえず、ここに置いてよ」
と、雑然といろいろな器具や本、ノートなどが散乱しているテーブルの一角をかき分けて、上月は置き場所を作った。
「はい」
と、返事をして、さくらは配達物を置いた。
「山口さくらちゃん?だったよね?助かりました。うちの先生、思いつくと言うこと聞かなくて」
「いえ、そんなことは……。」
といいながら、胸についた名札を左手でいじった。
「そうそう、その名札、昨今は物騒だよね。会社に改善を申し入れしてみたら?」
「大学の変な助教が教えてもないのに名前で呼んでくるので、気持ち悪いから、普段はつけたくありませんっていうんですか?」
と、冷静に反応した。
「あ、それはいいアイデアかもね? 俺、役に立ったんじゃない?」
「ええ、非常に。」
「よかったですよー、それは。で、冷たいお茶でもどうですか?今、入れるよ。」
といって、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、グラスにこぽこぽと音をたてながら注いでくれた。今日は30℃近くまで気温が上がると予報が出ており、午前中であるにも関わらず、配達で少し移動したせいもあったりで、喉が渇いていた。さくらは、素直に「ありがとう、頂きます。」といって、一口飲んでから、テーブルの脇に置いた。いくつか同じ柄のグラスが並んでいた。やはりお茶が注いであるようだった。
「大学の研究室って、思ったより狭いんですね。それになんか雑然としてるし」
「それは、お恥ずかしい。きれいに整理している方もいなくはないんだけど、少数派かな?」
「ふうん、いろいろ本もいっぱいあるし……」
本棚には、和書、洋書含め、よくわからなかったり、不思議な名前だったりする文献が並んでいた。一通り眺めてから、先ほど置いたグラスを取り、さらに一口飲んで、さくらは、ウッとなった。
「うわー、なんですか?このしょっぱ生臭いのは?」
どうも、同じようなグラスが並んでいるので、つい取り違えて飲んだらしい。
「あ、それは飲んじゃだめだよ。うわー、しまったな。」
入っていたのは、お茶ではなかったらしい。確かによく見てみると、お茶とはちょっと色が違う。
「なんだったんですか?」
「それは、シアノバクテリア。昔は藍藻って言ってたやつなんだ。」
「はあ、なんですか、それ。」
「シアノバクテリアは、まあ、光合成する細菌っていうか……。そこにあったのは、シネココッカスっていって、海にいる奴なんだけど、近縁の仲間は、地球のほぼどこにでもいるんだ。北極圏の永久凍土の中から、70度を超える温泉の中までね。砂漠や土壌中にいる奴もいる。地球だけが大気に多量の酸素を含んでいる原因で……。で、今度、高校生向けの公開講座で使うんで、ちょっと、頼まれて預かっていて、そこに置いてあったんだけど……」
「ふーん、で、大事なことをお聞きしますが、飲んでも大丈夫なんですか?」
「あー、まあ、一口くらいなら、ね。それに、健康食品のスピルリナってのは聞いたことあるかな?それも、まあ、そこのとは種類が違うけど、やっぱり、シアノバクテリアなんだよ。だから、食っても、健康にこそなれ、死にはしないと思うよ。毒吐くやつも、結構な数、近縁にいるらしいけど……」
なんていい加減な、と思って、ちょっと腹が立ったけど、考えてみれば、さくらが感情的になるなんて珍しかった。さくらは子供のころから、冷静で落ち着いた子といわれてきたのだった。
「毒吐くやつって、上月さんのことじゃなくってですか?」
「さすがに、俺は人間だし、単細胞生物の近縁ってことはないけど。あ、シアノバクテリアは単細胞なんですよ。」
さくらは思わず、あなた単細胞でしょ、っとツッコみそうになったが、ま、とりあえずおなか壊したりはしなさそうだしいいか、と思い、いつものように冷静に
「仕事中なので、そろそろ、失礼致します。」
と言って、お茶のほうをもう一度、飲んだ。
「そうかですか。今日は、助かりました。じゃあ、また、次の奴が来たらよろしくです。」
外に出て、バタンとドアを閉めた。なんて変な人。ペース狂うわね。でも、こんな風に感情が動くのはずいぶん久しぶりだわ、と思った。
「もしもし、輪傳堂です。昨日来られた件でお伝えしたいことがございまして」
「あー、どうでしたか?」
「ご所望のもののうち、いくつかは一と月ほどで、ご用意できます。残りのものは、もう少し、お時間いただきたいとのことです。」
「どのくらいですかね?」
「大至急で、3か月、とのことです。」
「わかりました。では、最初の一と月の奴は、さくらちゃんとこに発注しますよ。この電話で。残りのは、先生と相談して、もう一回、こちらから電話します。」
上月は、さくらの名前をすでに把握しているようだった。そういえば、事務員の制服には名札が付いているからかな?と思いあたったが、微妙に返事がおかしくなった、
「はぁ、いや、私の会社ってわけでは、ね。いや、えっと、わかりました。ありがとうございます。お電話もお待ちしております。それでは、失礼いたします。」
どぎまぎした感じで電話を切った後、間髪入れず沢田さんが話しかけてきた、
「ほらね、あーゆー男は油断したらあかんよ!何されたんかは知らんけど」
「いえ、別にたいしたことは……」
「ん?それにしては、顔が真っ赤やん?」
「沢田さんが変なこというからですよ。」
といったところで、係長が部屋に入ってきたので、会話はおしまいになった。さくらは、でも、こんな風に感情が動くのは珍しいわね、と自分で自分にちょっと驚いていた。
結局、上月はすべてのものを注文してくれたので、入った順に届けることになった。今日は、最初の配達である。電話で指定された建物まで行って、エレベーターに乗り、5階まで行った。そこで、エレベーターを降りて、白衣を着た学生達がしかつめらしい顔でうろうろしている廊下をパタパタ歩いていくと、“507 上月勇二” という名札を見つけた。軽くノックしてみた。
「はいー?」
「山口です。あの、輪傳堂の」
と会社名を述べると、ガタガタ、バコっみたいな音がして、その後、少ししてからドアが開いた、
「あー、わざわざありがとうございます。」
「いえ、こちらこそありがとうございました。今後とも弊社を……」
といったあたりで、遮るようにぶっきらぼうに
「とりあえず、ここに置いてよ」
と、雑然といろいろな器具や本、ノートなどが散乱しているテーブルの一角をかき分けて、上月は置き場所を作った。
「はい」
と、返事をして、さくらは配達物を置いた。
「山口さくらちゃん?だったよね?助かりました。うちの先生、思いつくと言うこと聞かなくて」
「いえ、そんなことは……。」
といいながら、胸についた名札を左手でいじった。
「そうそう、その名札、昨今は物騒だよね。会社に改善を申し入れしてみたら?」
「大学の変な助教が教えてもないのに名前で呼んでくるので、気持ち悪いから、普段はつけたくありませんっていうんですか?」
と、冷静に反応した。
「あ、それはいいアイデアかもね? 俺、役に立ったんじゃない?」
「ええ、非常に。」
「よかったですよー、それは。で、冷たいお茶でもどうですか?今、入れるよ。」
といって、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、グラスにこぽこぽと音をたてながら注いでくれた。今日は30℃近くまで気温が上がると予報が出ており、午前中であるにも関わらず、配達で少し移動したせいもあったりで、喉が渇いていた。さくらは、素直に「ありがとう、頂きます。」といって、一口飲んでから、テーブルの脇に置いた。いくつか同じ柄のグラスが並んでいた。やはりお茶が注いであるようだった。
「大学の研究室って、思ったより狭いんですね。それになんか雑然としてるし」
「それは、お恥ずかしい。きれいに整理している方もいなくはないんだけど、少数派かな?」
「ふうん、いろいろ本もいっぱいあるし……」
本棚には、和書、洋書含め、よくわからなかったり、不思議な名前だったりする文献が並んでいた。一通り眺めてから、先ほど置いたグラスを取り、さらに一口飲んで、さくらは、ウッとなった。
「うわー、なんですか?このしょっぱ生臭いのは?」
どうも、同じようなグラスが並んでいるので、つい取り違えて飲んだらしい。
「あ、それは飲んじゃだめだよ。うわー、しまったな。」
入っていたのは、お茶ではなかったらしい。確かによく見てみると、お茶とはちょっと色が違う。
「なんだったんですか?」
「それは、シアノバクテリア。昔は藍藻って言ってたやつなんだ。」
「はあ、なんですか、それ。」
「シアノバクテリアは、まあ、光合成する細菌っていうか……。そこにあったのは、シネココッカスっていって、海にいる奴なんだけど、近縁の仲間は、地球のほぼどこにでもいるんだ。北極圏の永久凍土の中から、70度を超える温泉の中までね。砂漠や土壌中にいる奴もいる。地球だけが大気に多量の酸素を含んでいる原因で……。で、今度、高校生向けの公開講座で使うんで、ちょっと、頼まれて預かっていて、そこに置いてあったんだけど……」
「ふーん、で、大事なことをお聞きしますが、飲んでも大丈夫なんですか?」
「あー、まあ、一口くらいなら、ね。それに、健康食品のスピルリナってのは聞いたことあるかな?それも、まあ、そこのとは種類が違うけど、やっぱり、シアノバクテリアなんだよ。だから、食っても、健康にこそなれ、死にはしないと思うよ。毒吐くやつも、結構な数、近縁にいるらしいけど……」
なんていい加減な、と思って、ちょっと腹が立ったけど、考えてみれば、さくらが感情的になるなんて珍しかった。さくらは子供のころから、冷静で落ち着いた子といわれてきたのだった。
「毒吐くやつって、上月さんのことじゃなくってですか?」
「さすがに、俺は人間だし、単細胞生物の近縁ってことはないけど。あ、シアノバクテリアは単細胞なんですよ。」
さくらは思わず、あなた単細胞でしょ、っとツッコみそうになったが、ま、とりあえずおなか壊したりはしなさそうだしいいか、と思い、いつものように冷静に
「仕事中なので、そろそろ、失礼致します。」
と言って、お茶のほうをもう一度、飲んだ。
「そうかですか。今日は、助かりました。じゃあ、また、次の奴が来たらよろしくです。」
外に出て、バタンとドアを閉めた。なんて変な人。ペース狂うわね。でも、こんな風に感情が動くのはずいぶん久しぶりだわ、と思った。