冷たい雨の降る夜だから


 夕焼けに染まる教室。憂鬱な気持ちで、翠は3年生の教室に足を踏み入れた。

「おせーよ」

 浴びせられた声に心臓も身体も竦み上がって、凍り付いたように動かなくなる気がした。

「部活、無かったんじゃねーの?」

 部活の先輩である道又には、部活の事情は筒抜けだ。

「クラスの用事があって……」

 部活は無かったけれど、HRが終わった後にクラス委員の子と話していたら、一緒に雑用を頼まれた。そのことはメールで伝えていたはずだ。待たせていることは判っていたけれど、いっそのこと先に帰っていてくれたなら良かったのにと、本当は思っていた。

「ごめんなさ……」

 何が悪いのか判らないけれど、ごめんなさいというその言葉が震える唇から零れ落ちた。

「お前のその顔、そそられんな」

 ニヤリと歪められた唇に、ゾクリと悪寒が背中を走り抜けた。

「そ……なつもり……」

 そんなつもりは無い、そう言いたいのに、言葉を上手く紡げない。

「……誰も、居ないしな」

 翠はふるふると首を横に振って「嫌だ」と後ずさるけれど、伸びてきた手に手首を掴まれてあっさりと阻まれる。

「声あげんじゃねーぞ」

 どんな抵抗も無意味だと有無を言わさぬ言葉が、耳元で低く告げられる。それでも逃れたくて力を込めたけれど、道又の手はびくともしない。

「暴れんなよ。今更だろ」

 耳元で囁く声が恐怖をあおりたてる。壁際に追い詰められた翠の制服のボタンを乱暴に外して、胸元に乱雑に手が突っ込まれる。下着の上から胸をまさぐられても、スカートの中に入り込んだ手が内腿を撫でるのも、感じるのは恐怖だけだった。

「嫌……お願い……」

 せめて場所だけでも、そう思った言葉に道又が口元を歪める。

「別にどこだっていいだろ。避妊すれば」

 そう言って取り出された避妊具に目を疑った。

 嫌だ。

 頭の中で、何かがはじけた気がした。

 その後の事は、良く覚えていない。どうやって道又の手から逃れたのか、判らなかった。気がついたときには、夕暮れだった空には夜の帳が下りていて、物音一つしない暗闇の世界に独りで居た。

『お前にもう、用無いから』

 届いたメールの言葉を思い出しただけで、虚無感が心を支配していく。何もかも、自分の存在自体も、薄っぺらくて意味のないものになっていく気がした。

 不意にガラッと聞こえた扉の開く音に、翠は心臓が飛び跳ねた気がした。音は隣の部屋からだった。わずかに靴底と床の擦れる音が聞こえてきて、誰かが隣の部屋に居るのだと判って息を呑んだ。

 この部屋に来る? お願い、来ないで……

 下校時刻をとうに過ぎた時間にこんなことに居ることも、勝手にこんな奥にまで入ったことも、誰かに見つかったらきっと怒られる。

 ここに居る理由を問われたら?

 そう思うだけで、あまりの虚しさに胸が軋む気がした。ぐっと唇を噛んだ翠の心を他所に、ガチャンとドアが開くのを拒む音が響いた。あぁ、内鍵をかけていたんだ、と安堵したのも束の間、鍵を差し込む音、次いでカチャンと言う軽いシリンダーの動く音が静寂の中に響き渡って、翠は絶望的な気持ちで膝を抱きしめた。キィと普段な聞き逃してしまう様なドアの蝶番が軋む音すら、耳に届く。パチンと小さな音がして、翠が居る部屋の明かりがついた。

 絶対怒られる。

 そうは思えど、どうしようもなかった。逃げられる場所も無い。隠れているのを見つからないことを祈るしか出来ない。だけど、無常にも足音は近づいてくる。

 実験台の下に座り込んでいた翠からは、脚しか見えなかった。判ったのは、制服ではなくスーツを着ていること、履いているのはちょっとくたびれたスニーカーであること。

 その人物は翠の隠れている実験台の前で足を止めた。

「なに、してんだ?」

 降って来た低い男の声に、覚悟はしていたけれど身を竦めた。翠は顔を上げることも出来なかった。怒られると思うと怖くて。どうしてここに居るのかを問われるのが不安で。震える身体を小さく縮こまらせる事しかできなかった。

「一年? 大丈夫か?」

 聞こえてくる男の声に責める響きは全く無くて、心配するような、いたわる様な声音に漸く少しだけ顔を上げる。片膝をついて翠の前に居たのは、見たことすらない男の人だった。

 翠の表情を見た後、さっと翠に視線を走らせてその人は立ち上がった。

「制服、なおしな」

 その言葉にはっとして、翠は自分の胸元を見下ろした。乱れた制服の胸元からはキャミソールとその下の下着がわずかに見えているのが判って、慌てて手で胸元を抑える。こんな格好をしていたことにすら、気付いていなかった。

 震える手でボタンをかけて見上げると、男は翠の方を見ずに缶コーヒーをマグカップに移し変えていた。そのまま、翠のほうに向かってきたかと思うと、翠が座り込んでいる実験台の上でなにやら音がする。ブゥンと聞こえてきたその音は、電子レンジの音のようだった。そして、ピピッとアラームがなった後、またガチャンと言う音。

「顔色ヤバイからとりあえず飲んどけ」

 そう言って差し出されたマグカップが、とても熱く感じられて、翠は自分の身体が冷え切っていることに気がついた。

「飲んだら、送ってやるから」

 カップに入っているコーヒーは苦くてなかなか飲めなかったけれど、両手で持ったカップの温かさに、やっと止まった涙がまた溢れ出した。

 本当に、涙はどこから出てくるんだろう。いつになったら、枯れてくれるんだろう。

 泣きながら飲むコーヒーは、苦くて、涙の味がした。
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