冷たい雨の降る夜だから
◆
物理実験室のドアが開いて、翠は顔を上げた。逆光でよく見えなかったけれど、シルエットは男のもの。男の人だとわかったとたんに、なんともいえない不安のようなものが胸に湧き上がってきて、足から力が抜けそうになるのを、ぐっと堪える。翠が居ることが予想外だったのか、ドアを開けたその場で足を止めたその人は、翠を見て小さく漏らした。
「あぁ、……昨日の」
聞こえてきた声は昨日聞いた低い声で、その声だけで翠の胸には安堵が広がっていく。
「昨日は、ありがとうございました」
昨日、この人は翠が泣き止むまで何も言わずにいてくれた。その後、3年生の教室に荷物を取りに行く間も、家の近くまで車で送ってくれる間も、一度も翠を問い詰めたりもしなければ、責めるようなこともしなかった。
「いや。昨日は言わなかったけど、もし訴えたいならちゃんと警察に行った方がいい。
だけど、事情かなり詳しく聞かれるだろうからその辺はよく考えて、な」
そう言いながら翠の背後の物理実験準備室のドアを開けて、準備室に入る。
「けい……さつ?」
翠の全く理解できていない表情を横目でとらえて、男は呆れたようにため息をつく。翠は警察と言う言葉を反芻していた。警察なんて考えたことも無かった。そんな翠を横目に、男は慣れた様子でキャビネットから缶コーヒーを出してプルタブを起こすと、コーヒーを一口飲んだ。
「で?どうした?なんか忘れ物でもしたのか?」
あぁ、昨日のコーヒーあの棚から出てきたんだ、と明後日なことを考えていた翠は、男に言われてここに来た理由を思い出した。
「違います。あの、昨日お礼、言えなかったから……」
あのまま誰も来なかったらきっと朝まで動けずにここに居たと思った。温かいコーヒーは、不安だった心を温めてくれた。家まで電車に乗る事無く送り届けてもらえたのは、昨日の翠にとっては凄く安心することだったのだ。
「俺に礼を言うよりも、やることあんだろ」
ほかにやること?そんな事は翠にはやはり何も思い浮かばなくて男を見た。
「昨日の相手、ひっぱたくなり、なんなりして来いよ」
その言葉を聞いているうちに、目頭はどんどん熱を持つ。散々泣いたのに、やっぱり涙は何処からとも無く湧き出てくるのだ。今朝だって昨夜ずっと冷やしていたのに酷い顔で、お昼頃にやっとマシな顔になったばかりだったのに。
「いい男じゃなさそうだから、仲直りはあんまお勧めしないな」
少し呆れたように言って、ぽんっと頭に手を置かれたら、頑張って堪えようとしてた涙が決壊した。ボロボロと止め処なく涙が出てくる。
「もぅ……彼氏じゃないです。終わったし……」
終わった、自分で口にした言葉なのに、翠は酷く絶望的な気持ちになって立っていられないような気がした。丁度ドアの所に立っていた翠の背中を軽く押して、その人は翠を部屋の中に入れてくれた。
「嫌な事、ちゃんと嫌だって言わなきゃだめだろ」
そんな言葉を聞きながら、翠は閉まったばかりのドアを背に、ずるずるとしゃがみこんだ。もう立っているのが限界だった。
物理実験室のドアが開いて、翠は顔を上げた。逆光でよく見えなかったけれど、シルエットは男のもの。男の人だとわかったとたんに、なんともいえない不安のようなものが胸に湧き上がってきて、足から力が抜けそうになるのを、ぐっと堪える。翠が居ることが予想外だったのか、ドアを開けたその場で足を止めたその人は、翠を見て小さく漏らした。
「あぁ、……昨日の」
聞こえてきた声は昨日聞いた低い声で、その声だけで翠の胸には安堵が広がっていく。
「昨日は、ありがとうございました」
昨日、この人は翠が泣き止むまで何も言わずにいてくれた。その後、3年生の教室に荷物を取りに行く間も、家の近くまで車で送ってくれる間も、一度も翠を問い詰めたりもしなければ、責めるようなこともしなかった。
「いや。昨日は言わなかったけど、もし訴えたいならちゃんと警察に行った方がいい。
だけど、事情かなり詳しく聞かれるだろうからその辺はよく考えて、な」
そう言いながら翠の背後の物理実験準備室のドアを開けて、準備室に入る。
「けい……さつ?」
翠の全く理解できていない表情を横目でとらえて、男は呆れたようにため息をつく。翠は警察と言う言葉を反芻していた。警察なんて考えたことも無かった。そんな翠を横目に、男は慣れた様子でキャビネットから缶コーヒーを出してプルタブを起こすと、コーヒーを一口飲んだ。
「で?どうした?なんか忘れ物でもしたのか?」
あぁ、昨日のコーヒーあの棚から出てきたんだ、と明後日なことを考えていた翠は、男に言われてここに来た理由を思い出した。
「違います。あの、昨日お礼、言えなかったから……」
あのまま誰も来なかったらきっと朝まで動けずにここに居たと思った。温かいコーヒーは、不安だった心を温めてくれた。家まで電車に乗る事無く送り届けてもらえたのは、昨日の翠にとっては凄く安心することだったのだ。
「俺に礼を言うよりも、やることあんだろ」
ほかにやること?そんな事は翠にはやはり何も思い浮かばなくて男を見た。
「昨日の相手、ひっぱたくなり、なんなりして来いよ」
その言葉を聞いているうちに、目頭はどんどん熱を持つ。散々泣いたのに、やっぱり涙は何処からとも無く湧き出てくるのだ。今朝だって昨夜ずっと冷やしていたのに酷い顔で、お昼頃にやっとマシな顔になったばかりだったのに。
「いい男じゃなさそうだから、仲直りはあんまお勧めしないな」
少し呆れたように言って、ぽんっと頭に手を置かれたら、頑張って堪えようとしてた涙が決壊した。ボロボロと止め処なく涙が出てくる。
「もぅ……彼氏じゃないです。終わったし……」
終わった、自分で口にした言葉なのに、翠は酷く絶望的な気持ちになって立っていられないような気がした。丁度ドアの所に立っていた翠の背中を軽く押して、その人は翠を部屋の中に入れてくれた。
「嫌な事、ちゃんと嫌だって言わなきゃだめだろ」
そんな言葉を聞きながら、翠は閉まったばかりのドアを背に、ずるずるとしゃがみこんだ。もう立っているのが限界だった。