冷たい雨の降る夜だから
「また泣いてる」

「だって」

 この部屋には、先生と過ごした幸せな時間と同じくらい、私の涙も詰まってる。

「私、ここに居たでしょ?」

 ここ。

 猫ちゃんが居る、壁際の実験台の下。

 私がこの部屋に初めて逃げ込んだとき、泣きながら居たのは、今猫ちゃんが居るこの場所だった。

「先生が居ないときにね。あの日の事思い出して不安になる時があって。そんな時に猫ちゃんがここで笑っててくれると、もう昔の事なんだって、すっごく安心したの」

 猫ちゃんが来たとき、本当は凄くほっとした。私が泣いてた、あの空間がなくなることに、凄く凄く安心した。

 くしゃくしゃと先生の手が頭を撫でてくれて、先生に抱き寄せられた。

「俺もだよ。夜に1人でここに戻ってくると、今でもたまに思い出す。まぁ、こいつ見ると気が抜けるんだけどさ」

 私の頭を抱いたまま、もう一方の手でぽんぽんと猫ちゃんの頭を撫でる。

「おい、マジ泣きするなよ。お前これから遊びに行くんだろ?」

 その言葉に、慌てて目元をごしごしと擦る。

「つーか、本気でこいつ欲しいのか?」

「うん」

「使い道ないだろ、こんなの」

 半眼でそういわれて改めてごろんと大きな猫ちゃんを眺めて、ドアを開けてみる。

「化粧水とかなら入るかな?」

 しばらく考えて導き出された私の答えに、先生が声を上げて笑いだす。

「だって野良猫にするのかわいそうじゃん!!」

「いいよ、転勤するときもまだ欲しかったら持って帰ってやるよ」

 そう言いながらも先生はまだ笑っている。あまりにも先生が笑うから、そっぽを向くと「翠」と先生が私の名前を呼ぶ。いいもん、もうそっち向かないもん。と無視していると、そんな私をすぐ傍らで先生が笑う。

「まだ拗ねてんの?」

 だって、そんなに笑わなくたっていいでしょ? 猫ちゃん、野良猫にするの嫌なだけなのに。

「翠」

 先生の手に少し乱暴に引っ張られて先生の腕の中に倒れこんだら、そのまま唇を奪われた。

 一度したら、止められなくなった。

 なんども角度を変えて唇を重ねて、互いの唇を食むように啄ばんで。私と先生の吐息が混ざる。静かな部屋の中で聞こえるのは、私たちの少し熱っぽい、息遣い。絡め取られた舌先が離されるとき少しだけ濡れた音がして、また先生に唇をふさがれる。

 私、この部屋を思い出すとき、もう泣いてた事を思い出さない。

 ここは私がたくさん泣いて、たくさん後悔をした場所。でも、先生と出会って、過ごして、恋をした大切な場所だ。

 先生もそうであって欲しいと思いながら、何度も唇を重ねる。忘れるのは無理なのはわかってる。だけど、思い出すのは、先生がこの部屋で仕事するときに思い出すのは、笑ってる私であって欲しい。

 不意に私のバッグの中でスマホが鳴って、私と先生は現実に引き戻された。
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