冷たい雨の降る夜だから



 翠が実験台の上に放り出していた封筒を、傍らから伸びてきた手が拾う。翠が憂鬱な顔でいる理由がその封筒にあるのを、その手の主は気付いていたらしい。

「北川 翠 様」

 表に書かれた、男子生徒の物と思しき文字を読み上げたのは、低い男の声。

「ラブレターか?古風だな」

 笑みを含んだ声音で告げて、大きな手が翠の頭を撫でる。

「そんなにへこむなよ。かわいそーだろ?」

 この手紙の送り主が、と言外に言うその人を、翠は膨れっ面で見上げた。

 スーツ姿、黒髪に一見黒に見えるけど実は濃紺色のメタルフレームの眼鏡。眼鏡の奥の切れ長の瞳が鋭いその人は、面白がるような表情で実験台に突っ伏している翠を見下ろしていた。

「だって先生……」

 ぷぅ、と翠は拗ねて傍らの男を見上げる。

「それ見てよ」

 それ、と指すのはさっき持っていかれた封筒。中身は先ほど男に言われた通り、ラブレターの類に間違いなかった。

「俺が見ていいのか?」

 翠が頷くのを確認してから、男は封筒から中の便箋を出して開く。ざっと目を通して小さく笑い声を漏らして、さも面白そうに翠を見る。

 「6組の峰岸か……行ってこいよ」

 言葉と共に肩越しに廊下と繋がる引き戸の方を振り返って、男は続けた。

「すぐそこだろ?」

『放課後、化学実験室の裏で待っています』と手紙の中で指定された場所は、すぐそこ。
 ここは化学実験室と廊下を挟んで向かい合っている物理実験室-に付随している物理実験準備室。普段は鍵をかけていて開かないようにしてある廊下と繋がる引き戸を開ければ、そこは化学実験室の目の前なのだ。

 そして、翠と話しているこの男は、この物理実験準備室で仕事をしていることの多い物理教師の新島だった。

「やだよぉ……無理ぃ」

 完全に面白がっている様子の新島に、翠は恨めしい視線を投げる。

「俺に言わずに本人に言ってこいって。そこの非常口から出て、無理っつって帰ってくるだけだろ?
大丈夫、こいつ変なやつじゃねーから。つるんでるやつらもマトモ」

 翠が全く知らない差出人を新島は知っているらしい。恐らく教科担任なのだろう。新島は簡単そうに言うけれど、翠には全く簡単じゃない。簡単じゃないから、ここで実験台に突っ伏しているのだ。

 それにしても、と新島は手紙と翠を見比べる。

「体育祭ねぇ。
お前、体育祭の時目立つことでもしたのか?」

 手紙の中には、『体育祭で見かけてから気になってました』という一文があった。

「えー……リレー出たって言ったじゃん!」

 翠が拗ねてしまうのは、せっかくクラス対抗リレーに出て全校で2位だったのに、 新島が全く見てもいなかったからだ。

「そーいやそんなこと言ってたな」

「覚えててよぅ……先々週なのに」

「しらねーよ。俺、閉会式の準備してたし」

 リレーなんて見てねーよ、と返してくる新島の声音は、心底どうでもいいと言いたげな空気をまとっている。新島は自分の興味の無いことにはとことん興味が無いらしい。

「それより、早く行けよ。待ってんだろ?
これ持ってっていいから」

 これ、とキャビネットの下段から出されたそれはドアストッパーで。要はオートロックである非常口に挟んで、すぐに戻ってこれるようにしていいぞ、と言う事だとは翠にも判った。それでも尚煮えきらずに呻いている翠に、新島は呆れたように息をつく。

「5分したらコンビニ行ってやる」

 校舎の裏側のフェンスはいつの頃からか大きな穴が開けられていて、道路を挟んで向かいにあるコンビニへの近道として、生徒に有効活用されていた。

 新島は、物理実験準備室に外用のサンダルとオートロックの非常口が閉まらないようにするドアストッパーを常備していて、時々コンビニに行っている。きっちりスーツに眼鏡で真面目そうに見える割に、案外そうでもないのだ。

「ほんとぉ?」

「仕方ないから行ってやるよ」

 もちろん声をかけてくれるわけではなく、ただ通りかかるだけだと判っていた。それでも、二人きりの空間を打破してくれるだけで翠には十分すぎるほどの救いだった。

「先生、絶対だよ?5分で来てね?」

 念を押すと、「はいはい」と聞いてるんだか聞いていないんだかよくわからない空返事が返ってくる。

「絶対来てくれなきゃやだからねっ」

 泣きたい気分でそう言い置いて、翠は物理実験準備室を後にした。物理実験室を出て、ほんの数歩で到着してしまった非常口の前。はぁ……と、ため息のような深呼吸を一度してから非常口を開けて、ドアストッパーを端っこに挟む。あまり大っぴらに開けておくと、廊下の向こうを歩く教師に見つかって閉められてしまうから、あくまでもロックが掛からないようにだけ。誰もいなければいいのに……。そう思いながら今度こそため息をつく。手紙を書いてくれた三年生の先輩は、名前も書いてくれていたはずなのに全く思い出せなかった。

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