冷たい雨の降る夜だから
「北川?」

「せんせ……」

 ドキドキと鳴る心臓の音が、新島まで聞こえるんじゃないかという気がした。

「ごめん、準備室鍵掛けてた」

 翠は小さく頷いた。声を出したら、震えそうで声を出せなかった。

「声かけても起きなかったから」

 新島が部屋に鍵を掛けた理由は、翠にも判っていた。最近、受験が近いからか物理実験準備室には時々新島を探しに生徒が来る。新島のジャケットを肩にかけた翠が眠っているのを他の生徒が目にすることが無いように。今の翠と新島の関係が、誰にもばれないように。

 この廊下は、両側に教室があって蛍光灯をつけないと夜は真っ暗になる。今も何となくシルエットはわかるけど、お互いに表情は見えていなかった。

「先生、ありがと」

「帰るのか?」

「……うん」

「北川、あの部屋冬は寒いから、こんな時間まで居ないで帰るようにしろよ」

 新島の静かな声音は子供に諭すように響いて、答えずに俯いていると新島の手が翠の頭を撫でた。確かに寒かったけど、素直に頷けなかった。待っていないと新島と会う事が出来ない。だから翠は、黙って俯くことしかできなかった。

「気をつけて帰れよ」

「……うん」

 学校を出て駅に向かっている間も、心臓がドキドキなっていた。

 先生のせいだ。

 翠はきゅっと唇を噛んだ。普段の新島なら「寝てんなら最初から来るな」とか「さっさと帰れ」とか容赦なく言うのに。新島がいつもより優しかったからこんなに調子が狂うんだと、半ば八つ当たりの様な事を考えながら、翠は電車の中で火照った頬を両手で包み込んだ。
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