冷たい雨の降る夜だから

「北川さん」

 不意に呼ばれた声に、肩がビクッと震えた。

「来てくれて良かった」

 そう言ってはにかんだように笑った先輩に、翠は足がすくんで動けなくなる。背は翠より10㎝ほど高い気がする。短めでこざっぱりとした黒髪に、人懐っこそうな眼差し。

 大丈夫…そんな…怖がらなきゃいけないような人じゃなさそう。

 そう思うのにバクバクと耳の奥で心臓が早鳴りしているのが響く。大丈夫、大丈夫…。無理って言うだけ……。5分したら先生が来てくれるから……。

 目の前の人の唇が動いてるのは見えたけれど、酷く緊張しているからか声が全く耳に聞こえてこなかった。

「それで、良ければ付き合ってください」

 ずっと声なんてまともに聞こえなかったくせに、こんなとこだけ聞こえるってどういうことなんだろう。そう思うのに、本当に金縛りにあったように声も出てこなかった。

 しばらく沈黙がその場を支配する。

 静かであればあるほどに耳の奥で響く自分の鼓動に、翠は唇を噛んだ。無理だと言うだけなのに。それだけなのに、どうしてこんなにも足がすくむんだろう。

 どうして声すらでなくなってしまうんだろう。

「北川さん?ごめん、急でびっくりさせちゃったよね。
その、返事はいそがないし、友達からとかで良いから……
考えてみて欲しいんだけど……」

 黙り込んでしまった翠に、慌てたように目の前の先輩が言葉を紡いだけれど、考えるもなにもない。答えは無理。絶対に無理。誰かと付き合うなんて全く考えられない。だけどそれを伝えることもまた、息が出来なくなりそうなほどに緊張する。言葉を探す翠の耳に、ドアの開く音が届いた。

 それは翠にとっては救いの音。

 電流が走ったように、翠は目の前の先輩にペコッと頭を下げた。

「あ、あの……ごめんなさいっっ」

 なんとかその一言だけひねり出して、翠は逃げるように非常口に駆け出した。途中、非常口から丁度出てきた新島に肩をぶつけたけれど、それすら気にせず非常口のドアを押さえてくれた新島の腕の下を潜り抜けて校舎に駆け込んで、ダッシュ逃げ込んだ物理実験準備室の内鍵をかけた。

 はぁはぁと肩で息をしながら、ドアの近くにへたり込む。自分でもどうしてこんなに駄目なのか不思議に思う。もう一人なのに。新島しかこない物理実験準備室に居るから大丈夫だと思うのに、それでもまだ立とうとすると足がガクガクと震えて、立ち上がる事すら出来なかった。

 そのまま壁際にある実験台に寄りかかって膝を抱えていると、ドアノブを回す音が響いて翠はビクッと身体をすくませた。次いでチャリッと微かに聞こえた鍵の音が新島が戻ってきたのを教えてくれて、安心してまた抱えた膝に顔を埋めた。

 鍵を開けて入ってきた新島は、翠の傍らに無造作にコンビニのレジ袋を置いてなにも言わずに通りすぎた。

 新島がキャビネットを開けてサンダルを片付ける音だけが、物理実験準備室の中に響く。

「何が起こったのか判ってない顔してたぞ」

 苦笑混じりの新島の言葉に翠は唇を噛んだ。新島に言われるまでもない。「ごめんなさい」とだけ言って逃げたのだから、先輩にしてみたら訳が判らなくて当たり前だ。

 顔を上げられずに、視線だけ傍らに置かれたコンビニの袋に移す。中には生クリームの乗ったプリンが入っていた。

「これ、いいの?」

「ん、食って元気だしな」

「わーい」

 プリン一つで浮上する心に翠は少し安心しながらフタを剥がす。ふわんとバニラの甘い香りがするそれをスプーンですくって、一口口に運ぶと、口の中でプリンとクリームが溶けていく。染み込むように広がってくる柔らかな甘さと一緒に、涙が出た。

「っく……」

 どうして今頃になって涙が出てくるのか全く判らないのに、ポロポロと涙が溢れてくる。

「北川」

 新島に呼ばれて顔を上げると、ポケットティッシュが飛んできた。

「それしかないからな」

大事に使えよ、と眼鏡の奥の黒い瞳が僅かに微笑んで、すぐに新島は手元のプリントに視線を落とす。どうしてなにも言わずにいてくれるんだろう。いつも理由を聞かずに、責めたりもしないで泣きやむまで居させてくれるこの部屋が、翠には学校の何処よりも安心する場所だった。

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