冷たい雨の降る夜だから
 結婚してるかもしれない。彼女が居るかもしれない。覚悟はしていたつもりだった。それでも、いざその言葉が先生の口から告げられたら、私の覚悟なんてあっさりと崩れてしまった。先生は昔と変わらずに接してくれて、教師と生徒だった頃よりもずっと近くにいるような気がして、覚悟をしているつもりで……全く出来ていなかったんだと思い知る。

「あ、おい。泣くなよ」

 泣くな、そう言って先生の指が頬に零れ落ちた涙をそっと拭う。運転中なのに、そう思って顔を上げると、赤信号だった。涙を拭ってくれた先生の手が、私の頬を優しくなでる。

「してない」

「…ほへ?」

 私の口から漏れたちょっと間抜けな声に、先生が呆れたように笑う。

「ほへって、お前な。結婚、してないから」

「……ほんと?」

「本当」

 信号が変わって、先生は私の方を少し気にしながらも運転に戻る。その横顔を半ば呆然としてみていた。

「彼女は?」

「居ない。居たらお前と会わない」

 急に曲がったので外を見ると、ショッピングセンターの駐車場だった。

「お前な、運転中にこんな話して泣くなよ」

「……ごめんなさい」

 集中できないだろ?と言われて俯くと、大きな手に頬をなでられた。昔と変わらず、先生の手は温かくて心地いい。他の人は触れるだけでも怖いし、温かいとかそんなことを感じられる気持ちの余裕なんてないのに、先生の手だけは、もっと触れて欲しいと思ってしまう。

「北川」

 少し間があって、先生が言いなおした。

「翠」

 初めて名前を呼んでくれた先生の声が、私の胸を一気に締め付ける。

「聞きたいのは、それだけか?」
< 79 / 139 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop