夢見るキスと、恋するペダル
お兄さんは、ソファからなかなか立たない私の隣にどさりと腰を下ろし、業務机の上にある書類を取った。
そこには『コシノサイクル 代表 小篠 航一』と書かれていた。

コウイチ?
この人の名前?
お兄さんが店長さんなのかな?

「コウイチさん…っていうんですか?」

「え?あ、違うよ。これは親父。俺はワタル」

「ワタル……」

「航海の航って書いて、ワタル。コウイチのイチを取っただけだけど」

航さん。なんか似合う。

私は、視線を外して紙を持つ彼の手を見た。
自分でもいつの間にか、人の目が見られなくなっていることに薄々勘付いていた。

そろそろ帰ろう……。
財布を取り出して立ち上がった。

「あの、ありがとうございました。1400円でしたよね」

「いや、いいって」

「だめです、私の気も済まないし……あっ」

押し問答の末、財布が転がりソファ下に落ちた。

「あああ……」

しゃがむ私を航さんは手で遮った。

「あ、いいよ。制服汚れるから、俺が取る」

コンクリートに膝をつき、広い背中を屈めている。
結局私も膝をつき、ソファの下を覗いた。


「汚れるって言ってるのに、全然言うこと聞いてくれねぇな」



航さんの唇が間近で動き、どきりとした。

顔が、体が、近い。
< 11 / 26 >

この作品をシェア

pagetop