そのくちづけ、その運命
「その子」を初めて見たのは、それからしばらく経ってからのことだった。

夏休み直前の7月中旬。

クラス内には、夏休みを使って挽回をしようという生徒も多く、クラスの士気は上がっていた。



そんなとき。

きれいな黒い髪を後ろに束ねたその子は、美術室の前で、熱心に絵を見ていた。


その視線の先に飾られていたのは、俺が一年前に描いた、タイトル「バイオリンと少女」だった。
油絵の技法を修得して初めて描いた作品だ。

今まで、美術室にある花瓶などの小物を題材にして少しずつ油絵を描く練習をしていたが、
なんとか形にできるようになってきたとき、久しぶりに外に出て作品を作りたいと思ったのだ。


何か音楽に関係のあるものを描きたくて、俺はなんとなくその造形が美しいバイオリンを選んだ。
春休みには家の近くの国立公園、そこの裏手に広がる森林に毎日足を運んで、
自分が描きたいものをイメージした。

俺はもともと自然物を描くのは好きでよく描いていた。
けれど、楽器のような作りが複雑なものは描いた経験があまりなく、どちらかというと苦手だったから、柊先生にも多くのアドバイスをもらった。

俺の絵をあんなにまっすぐに見てくれる人いたんだ……

自虐的にそう思うと同時に、
久しぶりに心が軽くなるのを感じた。

俺は半ば導かれるように、その子の後ろを通り過ぎるのをやめて、美術室の横の壁にもたれかかる。
そうして、彼女がいなくなるのをじっと待っていた。



そして、
―――俺は、立ち去るその子の横顔をとらえた。



彼女は泣いていた。

正確には、泣いているように見えた。

それでいて微笑んでいるようにも見える、そんな表情だった。

ただ、確かだったのは、
傍らで息をひそめていた俺なんかに目も触れず彼女はまっすぐに前を向いて歩いて行ったということ。

――瞳を涙で輝かせて。


…やっぱり泣いてたんだ。

その横顔を、俺は美しいと思った。

彼女は今を生きている。

それを感じさせる悠然とした姿だった。

振り返りもせず、ただ前を向いて。


彼女は未来を見つめている。現代に生きる勇者だ――と俺は思った。




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