君が望んだ僕の嘘
5.珊瑚が歌う夜
4【珊瑚が歌う夜】
連絡先交換が発端となって、大喧嘩をやらかした日の夜のことである。
「ぃよっし!
どこもかしこも完璧ね」
私は鏡の中に映る自分と目を合わせ、にやりと好戦的に口角を引き上げた。
今宵の装いは、久々にお出ましいただいた白いワンピースだ。
メイクもばっちり、髪だって念入りにセットした。
「待ってなさい、雪人め」
隙なくお洒落して、猛々しく気勢を上げる。
其れは何故か。
そいつは、別れ際に、雪人が放った宣戦布告に応じるためである。
先ほど、ヤツは言い捨てたのだ。
「とにかく、今晩九時、漁港裏の浜に来い!
俺の本気のロマンチックを見せてやらあ!
覚悟しろよ、美羽。
絶っっ対、ぎゃふんと言わせてやるからな!」
こうまで言われたのに、穏和ぶって勝負を避けたら、私の沽券に関わるってもんだ。
「雪人のヤツ、言ってくれるじゃない。
そういや一個年下のくせに。
あんな生意気なガキンチョなんざ、年上の魅力で悩殺してくれるわ」
戦闘意欲をよくよく燃やしつけてから、玄関に降り、夕飯後に磨き立てておいたサンダルを履いた。
「あれぇ?
美羽さん、こんな夜に綺麗な格好してどうしたの?
あぁ、そういや、今晩は公民館で青年会の飲み会があったねぇ。
美羽さんも呼ばれたんか?
あいっ!いけないよ!
あんた、まだ未成年さ。
飲酒はダメよ」
よしオバアが物音を聞きつけ、玄関に降りてくる。
いつも通り、一人でしゃべって一人で納得して、キッと眦を上げた。
「安心して、よしオバア。
飲み会なんかじゃないよ。
私は、今から雪人との果たし合いに行くの。
勝ってくるわ!
あいつをべっこべこにヘコましてやるから!」
ぐっと握った拳を掲げ、気炎をぼうぼうと上げてみせた。
よしオバアは、きょとんとして目を瞬かせた。
「果たし合い?
何よ、それ・・。
まあ、雪人くんとだったら心配ないね。
夜だし、気をつけて行っておいで。
よく分からんけど、どうせ勝負するなら勝ってくるんだよ」
「はいっ!いってきまっす!」
よしオバアの戦勝祈願を受けとり、気合い十分で海風荘を出た。
殺気立つ私とは裏腹に、島の夜は穏やかで、透き通っていた。
海風は、遠くで聞こえる潮騒を乗せて、ゆったりと木々を渡っていく。
濃紺の夜空が懐に抱くのは、丸い銀の月だ。
月光の陰で、名前も知らない星々は遠慮がちにさんざめいていた。
明るく美しい月夜である。
「わっ!月の光で影ができてる!」
何気なく足下を見て目を丸くした。
月光があまりに明るいものだから、昼間のように地面に影がおりていたのだ。
都会では考えられない光景だ。
「綺麗かも」
月光の作る影は、昼間のものとは全然違った。
夜闇の中でも、はっきり際立つほど明瞭で、冷や冷やするほど深い蒼だった。
海風に舞うスカートと一緒に、影が踊る様を見て、ふと思う。
私の蒼い影の隣に、雪人の影を並べたら?
影の蒼はもっと深く、うっとりと甘くなるのではないだろうか。
「はっ!何を考えてるのよ。
これから勝負だってのに、呆けてどうする?
やだ、もう浜辺はすぐそこじゃない。
しっかり、私!
勝つんだ、私!」
危ういところで夢想から立ち直った私は、気合いを入れ直して、白い砂浜に足を踏み入れた。
皓々とした銀の月光を背負って、雪人は立っていた。
「・・来たな」
「・・来たわよ」
ざっくざっくと真っ白な砂を蹴散らして、間近まで歩み寄った私達は、ぎりりと睨みあった。
・・確か、この勝負の如何は、ロマンチック云々だったような気がするが、そんなことは、もうどうだっていい。
とにかく、雪人の鼻っ柱をボッキボキに折ったあげく、粉々に砕いてやるのだ。
「着いてこい」
雪人は不遜な仕草で顎をしゃくると、返事も待たず、波打ち際のほうへと歩き出した。
早速、勝負か。
受けて立つ!
気合い凛凛、黙して雪人の後に続く。
真剣勝負に言葉など不要なのだ。
「座れ」
雪人も言葉短かだ。
波打ち際間近の乾いた砂を指し示し、自分もどかりと座り込んだ。
スカートの裾に気を配りながら、雪人の隣に座る。
すると、雪人が次に下した指示はこうだ。
「聞け」
意味が分からない。
「ちょっと待った。
聞けって何を?
俺の心の歌を聞けとかはやめてね」
たまらずツッコんだ。
「阿呆か!
違うわ!
誰がするか、そんなサムい真似!
いいから黙って耳を澄ませろ。
おら、特に波音の合間に集中しろ」
雪人がいらいらと波を指さした。
「分かったわよ」
不承不承、波間に耳を澄ませ、息をのんだ。
「なに、これ」
波間から、美しい音色が聞こえる。
きらきらと輝く音が。
それは、鈴の音よりもささやかで、もっとずっと澄んでいた。
五月の微風みたいに涼やかだ。
それでいて、まるで、ごく小さな火花が散るように、ちりちり、ちりちりと、一つ一つの音が弾けている。
「・・綺麗・・」
零れ出た溜息が震える。
雪人は満足げに微笑んだ。
月光を受けて銀色にきらめく波打ち際を指さした。
「よく見てみろよ。
珊瑚がたくさん打ち上げられてるだろ?
手のひらよりも小さな珊瑚は、波に煽られて、砂の上で踊るんだ。
そうやって珊瑚同士が触れ合って、あんな風に鳴ってるんだ。
波が引いていく時が、一番綺麗だぞ」
言われて、さらによく耳を澄ませる。
確かに、波が珊瑚をさっと撫でて海に帰っていく時に、きらきらと珊瑚が鳴っていた。
「なんだか珊瑚が歌ってるみたいだね」
「珊瑚が歌う、か。
良いな、その言い方」
さやかな歌声を遮らないよう、小さく囁くと、雪人もちゃんと耳元で囁き返してくれた。
「珊瑚の歌って、月夜にしかきこえないの?」
「いいや、昼間でも聞こえるぜ」
「じゃあ、なんで夜に連れてきたの?」
「月明かりの下で聞く音色が、一番綺麗だと思ったからだ。
美羽にはこの島で、一番綺麗なものを見せて、聞かせてやりたいからな」
雪人は得意げに胸を張った。
これは、ぎゃふんと言ってもいいかもしれない。
ロマンチック勝負は、雪人の優勢勝ちだ。
とても悔しいが。
「相手が雪人じゃなくって、恋人だったら、もっと素敵だったかな」
「はあ?なんだよ、それ・・」
悔し紛れに憎まれ口を叩くと、雪人は瞬く間にふてくされて、砂浜に寝っ転がった。
「あら?雪人、怒っちゃった?」
豪快な大の字のわき腹を突っつく。
「俺ら今は恋人契約中だろう。
コンセプトを根底から覆すような発言は控えろよ」
ぶくっと膨らんだ雪人の頬に、月影がまあるい輪を描いた。
見事なふくれっ面だ。
ぶっさいくだけど、可愛くて愛おしい。
「嘘嘘。ゴメン。
からかっただけだってば。
珊瑚の歌、本当に素敵よ。
想像以上にロマンチックだわ。
ありがと、雪人。
君と聞けて嬉しい。
ううん、君と聞けたから、嬉しいよ」
珊瑚の歌は、綺麗なだけじゃなくて、不思議な効力もあるみたいだ。
するすると、素直な気持ちが口をついて出た。
「・・そうかよ」
雪人ときたら、今度はぷいっと横を向いてしまった。
乱暴な口調だが、まんざらでもないらしい。
ここから見える耳朶が真っ赤だ。
「おや、まあ。
もしかして照れておいでですか、雪人さん」
つむつむ。
また脇腹を突っついてからかう。
「うっせぇ!
もう話しかけるな!」
怒鳴り声が返ってきて、耳朶の赤が一層濃くなった。
耳朶の赤は、私の胸の奥をきゅんと痺れさせた。
「ねえ、雪人。
ハグしよっか」
つむつむ。
またまた脇腹を突っついた。
「はい?」
寝転がっていた雪人が、砂をまき散らしながら跳ね起きた。
黒々とした目はまん丸に見開かれていた。
長い睫毛の先が、瞼と眉毛の間にくっついて見えるくらいだ。
「なんで、そんなにびっくりするのよ。
こういう時、恋人だったらハグの一つもするもんでしょうが」
「・・触っても泣かないか?」
くっきりと切れ込んだ二重が、危ぶむように何度も瞬いた。
「はい?
何で泣かなきゃいけないのよ」
「だってお前、ハグしたら時、泣いたじゃねえか。
それも、めちゃくそ泣いた。
俺に触られんのが、美羽は泣くほど怖いんだって、ショックだった。
だから、俺、美羽に触りたい時でも、触んないようにしてたのによ。
今になってハグしようとかって・・。
なんだよ、お前、訳分かんねぇよ」
雪人はどっと脱力して、ぐったりと膝を抱え、額を膝と膝の間に埋めた。
脱力した顔を見られたくないようだ。
「なに、それ・・」
今度は私が目を剥く番だった。
雪人が私に触れない理由が、こんなに可愛らしいものだったなんて。
ものっすごく意外だ。
普段は、俺様何様雪人様のくせして。
「馬鹿ね。
あれは君が面会二回目で、かつ無許可でキスなんかするからでしょうが。
あんなの、誰だって泣くわ。
でも、今は状況も心境もだいぶ違うでしょ。
ちょこっと触られたくらいじゃ、私、泣かないわよ」
艶々と月光を跳ね返すつむじに、優しく語りかけた。
「そっか。
そうだったのか」
自分の膝を抱えていた雪人の腕が緩んだ。
隙間から、小さく安堵の息が漏れてきた。
「・・じゃあさ。
今、抱きしめてもいい?」
むくりと頭が起きあがり、上目遣いが顔を出した。
「どうぞ」
雪人に向かって両腕を広げてみせた。
「・・美羽」
すんなりと長い手が、一直線に私に向かって延びてきた。
少し体温の低い手が、しんなりと私を抱きしめる。
「美羽・・美羽・・。
ありがとう、美羽。
美羽と出会えて、本当によかった」
雪人が何度も名前を呼んで、私のうなじの後れ毛を揺らした。
濃く香る雪人の香りが、胸の奥にまで染み渡った。
「・・雪人」
名前を呼び返すと、抱きしめる腕の力がやんわりと強くなったから、独りでに涙が滲んでしまった。
触られても泣かないって言ったのに、泣いちゃった。
だから、これは雪人には内緒。
悲しくない涙の膜を通して、足下に落ちる影がぼやけて見えた。
蒼い影は、ぴったりと隙間なく重なっている。
雪人の背中越しに蒼い影を見つめ、私は一人ほくそ笑んだ。
やっぱり思った通りだ。
雪人の影と一緒の方が、影の蒼は深く甘い。
とても、とても、甘い。
連絡先交換が発端となって、大喧嘩をやらかした日の夜のことである。
「ぃよっし!
どこもかしこも完璧ね」
私は鏡の中に映る自分と目を合わせ、にやりと好戦的に口角を引き上げた。
今宵の装いは、久々にお出ましいただいた白いワンピースだ。
メイクもばっちり、髪だって念入りにセットした。
「待ってなさい、雪人め」
隙なくお洒落して、猛々しく気勢を上げる。
其れは何故か。
そいつは、別れ際に、雪人が放った宣戦布告に応じるためである。
先ほど、ヤツは言い捨てたのだ。
「とにかく、今晩九時、漁港裏の浜に来い!
俺の本気のロマンチックを見せてやらあ!
覚悟しろよ、美羽。
絶っっ対、ぎゃふんと言わせてやるからな!」
こうまで言われたのに、穏和ぶって勝負を避けたら、私の沽券に関わるってもんだ。
「雪人のヤツ、言ってくれるじゃない。
そういや一個年下のくせに。
あんな生意気なガキンチョなんざ、年上の魅力で悩殺してくれるわ」
戦闘意欲をよくよく燃やしつけてから、玄関に降り、夕飯後に磨き立てておいたサンダルを履いた。
「あれぇ?
美羽さん、こんな夜に綺麗な格好してどうしたの?
あぁ、そういや、今晩は公民館で青年会の飲み会があったねぇ。
美羽さんも呼ばれたんか?
あいっ!いけないよ!
あんた、まだ未成年さ。
飲酒はダメよ」
よしオバアが物音を聞きつけ、玄関に降りてくる。
いつも通り、一人でしゃべって一人で納得して、キッと眦を上げた。
「安心して、よしオバア。
飲み会なんかじゃないよ。
私は、今から雪人との果たし合いに行くの。
勝ってくるわ!
あいつをべっこべこにヘコましてやるから!」
ぐっと握った拳を掲げ、気炎をぼうぼうと上げてみせた。
よしオバアは、きょとんとして目を瞬かせた。
「果たし合い?
何よ、それ・・。
まあ、雪人くんとだったら心配ないね。
夜だし、気をつけて行っておいで。
よく分からんけど、どうせ勝負するなら勝ってくるんだよ」
「はいっ!いってきまっす!」
よしオバアの戦勝祈願を受けとり、気合い十分で海風荘を出た。
殺気立つ私とは裏腹に、島の夜は穏やかで、透き通っていた。
海風は、遠くで聞こえる潮騒を乗せて、ゆったりと木々を渡っていく。
濃紺の夜空が懐に抱くのは、丸い銀の月だ。
月光の陰で、名前も知らない星々は遠慮がちにさんざめいていた。
明るく美しい月夜である。
「わっ!月の光で影ができてる!」
何気なく足下を見て目を丸くした。
月光があまりに明るいものだから、昼間のように地面に影がおりていたのだ。
都会では考えられない光景だ。
「綺麗かも」
月光の作る影は、昼間のものとは全然違った。
夜闇の中でも、はっきり際立つほど明瞭で、冷や冷やするほど深い蒼だった。
海風に舞うスカートと一緒に、影が踊る様を見て、ふと思う。
私の蒼い影の隣に、雪人の影を並べたら?
影の蒼はもっと深く、うっとりと甘くなるのではないだろうか。
「はっ!何を考えてるのよ。
これから勝負だってのに、呆けてどうする?
やだ、もう浜辺はすぐそこじゃない。
しっかり、私!
勝つんだ、私!」
危ういところで夢想から立ち直った私は、気合いを入れ直して、白い砂浜に足を踏み入れた。
皓々とした銀の月光を背負って、雪人は立っていた。
「・・来たな」
「・・来たわよ」
ざっくざっくと真っ白な砂を蹴散らして、間近まで歩み寄った私達は、ぎりりと睨みあった。
・・確か、この勝負の如何は、ロマンチック云々だったような気がするが、そんなことは、もうどうだっていい。
とにかく、雪人の鼻っ柱をボッキボキに折ったあげく、粉々に砕いてやるのだ。
「着いてこい」
雪人は不遜な仕草で顎をしゃくると、返事も待たず、波打ち際のほうへと歩き出した。
早速、勝負か。
受けて立つ!
気合い凛凛、黙して雪人の後に続く。
真剣勝負に言葉など不要なのだ。
「座れ」
雪人も言葉短かだ。
波打ち際間近の乾いた砂を指し示し、自分もどかりと座り込んだ。
スカートの裾に気を配りながら、雪人の隣に座る。
すると、雪人が次に下した指示はこうだ。
「聞け」
意味が分からない。
「ちょっと待った。
聞けって何を?
俺の心の歌を聞けとかはやめてね」
たまらずツッコんだ。
「阿呆か!
違うわ!
誰がするか、そんなサムい真似!
いいから黙って耳を澄ませろ。
おら、特に波音の合間に集中しろ」
雪人がいらいらと波を指さした。
「分かったわよ」
不承不承、波間に耳を澄ませ、息をのんだ。
「なに、これ」
波間から、美しい音色が聞こえる。
きらきらと輝く音が。
それは、鈴の音よりもささやかで、もっとずっと澄んでいた。
五月の微風みたいに涼やかだ。
それでいて、まるで、ごく小さな火花が散るように、ちりちり、ちりちりと、一つ一つの音が弾けている。
「・・綺麗・・」
零れ出た溜息が震える。
雪人は満足げに微笑んだ。
月光を受けて銀色にきらめく波打ち際を指さした。
「よく見てみろよ。
珊瑚がたくさん打ち上げられてるだろ?
手のひらよりも小さな珊瑚は、波に煽られて、砂の上で踊るんだ。
そうやって珊瑚同士が触れ合って、あんな風に鳴ってるんだ。
波が引いていく時が、一番綺麗だぞ」
言われて、さらによく耳を澄ませる。
確かに、波が珊瑚をさっと撫でて海に帰っていく時に、きらきらと珊瑚が鳴っていた。
「なんだか珊瑚が歌ってるみたいだね」
「珊瑚が歌う、か。
良いな、その言い方」
さやかな歌声を遮らないよう、小さく囁くと、雪人もちゃんと耳元で囁き返してくれた。
「珊瑚の歌って、月夜にしかきこえないの?」
「いいや、昼間でも聞こえるぜ」
「じゃあ、なんで夜に連れてきたの?」
「月明かりの下で聞く音色が、一番綺麗だと思ったからだ。
美羽にはこの島で、一番綺麗なものを見せて、聞かせてやりたいからな」
雪人は得意げに胸を張った。
これは、ぎゃふんと言ってもいいかもしれない。
ロマンチック勝負は、雪人の優勢勝ちだ。
とても悔しいが。
「相手が雪人じゃなくって、恋人だったら、もっと素敵だったかな」
「はあ?なんだよ、それ・・」
悔し紛れに憎まれ口を叩くと、雪人は瞬く間にふてくされて、砂浜に寝っ転がった。
「あら?雪人、怒っちゃった?」
豪快な大の字のわき腹を突っつく。
「俺ら今は恋人契約中だろう。
コンセプトを根底から覆すような発言は控えろよ」
ぶくっと膨らんだ雪人の頬に、月影がまあるい輪を描いた。
見事なふくれっ面だ。
ぶっさいくだけど、可愛くて愛おしい。
「嘘嘘。ゴメン。
からかっただけだってば。
珊瑚の歌、本当に素敵よ。
想像以上にロマンチックだわ。
ありがと、雪人。
君と聞けて嬉しい。
ううん、君と聞けたから、嬉しいよ」
珊瑚の歌は、綺麗なだけじゃなくて、不思議な効力もあるみたいだ。
するすると、素直な気持ちが口をついて出た。
「・・そうかよ」
雪人ときたら、今度はぷいっと横を向いてしまった。
乱暴な口調だが、まんざらでもないらしい。
ここから見える耳朶が真っ赤だ。
「おや、まあ。
もしかして照れておいでですか、雪人さん」
つむつむ。
また脇腹を突っついてからかう。
「うっせぇ!
もう話しかけるな!」
怒鳴り声が返ってきて、耳朶の赤が一層濃くなった。
耳朶の赤は、私の胸の奥をきゅんと痺れさせた。
「ねえ、雪人。
ハグしよっか」
つむつむ。
またまた脇腹を突っついた。
「はい?」
寝転がっていた雪人が、砂をまき散らしながら跳ね起きた。
黒々とした目はまん丸に見開かれていた。
長い睫毛の先が、瞼と眉毛の間にくっついて見えるくらいだ。
「なんで、そんなにびっくりするのよ。
こういう時、恋人だったらハグの一つもするもんでしょうが」
「・・触っても泣かないか?」
くっきりと切れ込んだ二重が、危ぶむように何度も瞬いた。
「はい?
何で泣かなきゃいけないのよ」
「だってお前、ハグしたら時、泣いたじゃねえか。
それも、めちゃくそ泣いた。
俺に触られんのが、美羽は泣くほど怖いんだって、ショックだった。
だから、俺、美羽に触りたい時でも、触んないようにしてたのによ。
今になってハグしようとかって・・。
なんだよ、お前、訳分かんねぇよ」
雪人はどっと脱力して、ぐったりと膝を抱え、額を膝と膝の間に埋めた。
脱力した顔を見られたくないようだ。
「なに、それ・・」
今度は私が目を剥く番だった。
雪人が私に触れない理由が、こんなに可愛らしいものだったなんて。
ものっすごく意外だ。
普段は、俺様何様雪人様のくせして。
「馬鹿ね。
あれは君が面会二回目で、かつ無許可でキスなんかするからでしょうが。
あんなの、誰だって泣くわ。
でも、今は状況も心境もだいぶ違うでしょ。
ちょこっと触られたくらいじゃ、私、泣かないわよ」
艶々と月光を跳ね返すつむじに、優しく語りかけた。
「そっか。
そうだったのか」
自分の膝を抱えていた雪人の腕が緩んだ。
隙間から、小さく安堵の息が漏れてきた。
「・・じゃあさ。
今、抱きしめてもいい?」
むくりと頭が起きあがり、上目遣いが顔を出した。
「どうぞ」
雪人に向かって両腕を広げてみせた。
「・・美羽」
すんなりと長い手が、一直線に私に向かって延びてきた。
少し体温の低い手が、しんなりと私を抱きしめる。
「美羽・・美羽・・。
ありがとう、美羽。
美羽と出会えて、本当によかった」
雪人が何度も名前を呼んで、私のうなじの後れ毛を揺らした。
濃く香る雪人の香りが、胸の奥にまで染み渡った。
「・・雪人」
名前を呼び返すと、抱きしめる腕の力がやんわりと強くなったから、独りでに涙が滲んでしまった。
触られても泣かないって言ったのに、泣いちゃった。
だから、これは雪人には内緒。
悲しくない涙の膜を通して、足下に落ちる影がぼやけて見えた。
蒼い影は、ぴったりと隙間なく重なっている。
雪人の背中越しに蒼い影を見つめ、私は一人ほくそ笑んだ。
やっぱり思った通りだ。
雪人の影と一緒の方が、影の蒼は深く甘い。
とても、とても、甘い。