しらゆき姫の心臓食べた、
「さっき、元彼を見かけたんですよ。私と別れてからまだ1ヶ月も経っていないのに、もう別の女の子と仲良く腕を組みながら歩いてました」



あくまで淡々と放ったそのセリフに、課長が息を呑む気配がした。

視線を人混みに向けたままで、私は続ける。



「別にもう、未練はないんですけどね。別れる少し前から、ほとんど会ってもなかったし」

「……雪城、」

「でもなんか、『ああ私はいらない女だったんだな』って改めて思い知らされたら、つい足が動かなくなってしまって。すみません、通行の邪魔でしたよね」

「雪城」



カツンと、日生課長が持っていた傘が地面に落ちた。

かと思ったら両頬をやわらかい何かで包まれ、強引に顔を振り向かせられる。



「ッ、かちょう……?」



見上げた先にいる日生課長は、なぜかいつも以上に険しい顔をしていた。

手袋をした両手のひらで私の顔を固定したまま、メガネ越しの鋭い眼差しが私を射抜く。



「目元、赤くなってるぞ」



すり、と左の目尻あたりを親指で撫でながら、課長が言う。

その低い声を聞いた瞬間、自分の身体の奥に熱が灯るのを感じた。

これはもう、ただの上司と部下の距離ではない。絡み合う互いの視線に情欲が混ざっているような気がするのも、たぶん気のせいじゃない。



「……寒いな。コーヒー、付き合え」



落とされたつぶやきに、意味を深く考えるまでもなくうなずいた。

その後のことは、ぼんやりとしていてあまり覚えていない。

気づけば課長と向かい合って、コーヒーショップにいて。そして気づけば、課長のマンションのベッドに沈んでいた。



「瑞妃(みずき)……」



熱い吐息とともに彼の声では聞き慣れない名前を呼ばれながら、肌を触れ合わせる。

堅牢な鎧のようにもはや課長の一部となっていた銀縁メガネは、いつの間にか取り払われていた。何の隔たりもない獰猛で欲に濡れた瞳に見つめられ、体温が上がる。

春壱(はるいち)さん、と呼び慣れないファーストネームをうわ言のように何度もつぶやきながら、知らずうち涙が零れていた。


ああ、たしかに今、このひとは私のことを欲してくれている。

このひとときだけでも、私を、必要としてくれている。


あのとき消えてしまいたいと思ったこころが救われた気がして、私はそっと、彼の首筋に口づけた。
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